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松川事件は3名が死亡した戦後最悪の鉄道事故。冤罪や真犯人の存在とは?

もくじ

1分でわかる松川事件

1分でわかる松川事件

  • 1949年に福島県を通過中だった旅客列車が脱線・転覆し乗務員3名が死亡
  • 国鉄と東芝の労働組合員20名が犯人として逮捕・起訴される
  • 1963年に最高裁で無罪が確定し、戦後最大の冤罪事件となった

「松川事件」は「下山事件」「三鷹事件」と名を連ねる、国鉄三大ミステリー事件に一つに数えられます。一度は犯人が逮捕されたものの最高裁で無罪判決が下り、未解決のまま時効を迎えました。 しかし現代でも関心を持つ人が多く、映画化もされています。今回はそんな「松川事件」の概要と裁判の行方について、解説します。

松川事件の概要

(画像:Unsplash

「松川事件」は、1949年の夏に起こった国鉄三大ミステリー事件の一つです。1949年8月に発生し、死者3名を出しています。犯人が故意にレールを外し、列車が脱線・転覆したのです。 ここでは「松川事件」の発生から容疑者逮捕までの概要について、説明します。

事件が発生したのは三鷹事件発生の1ヶ月後

「松川事件」が発生したのは、1949年8月17日3時9分ころとされています。青森から上野に向かっていた412旅客列車が、福島県信夫郡金谷川村(現・福島市松川町金沢)で脱線・転覆したのです。 列車が脱線したのはカーブの入り口あたりで、先頭の蒸気機関車から荷物車・郵便車・客車の順で転覆していきました。 国鉄三大ミステリー事件の一つである「三鷹事件」が起こってから、わずか1ヶ月後のことでした。

この事故で機関車の乗務員3名が死亡

この日旧国鉄東北線の金谷川―松川間を通過中の412旅客列車は、C51形蒸気機関車133号機が荷物車・郵便車・客車を牽引するという形で走行していました。 そして右カーブに差しかかったところで突然、先頭の蒸気機関車が脱線・転覆したのです。 この蒸気機関車には49歳の機関士と27歳・23歳の機関助士2名の3名が乗車しており、事故により死亡しました。

現場検証の結果、人為的事故であることが判明

412旅客列車の事故の一報を受けて、現場検証が始まりました。その結果、列車が脱線・転覆したあたりの線路の継ぎ目部分にあったボルトやナットが緩められていることがわかったのです。 そのうえ継ぎ目板も外され、枕木の上にレールを固定していた犬釘も数多く抜かれていることが確認されたのです。これにより長さ25mのレール1本が外され、13mも移動されていたことがわかります。 この事故は、人為的に起こされたということです。

捜査当局は捜査開始時から国鉄労働組合構成員によるものであると見込みをつけていた

「松川事件」の捜査を始める段階で警察当局は国鉄労働組合構成員によるものであると考え、談話も発表しています。「松川事件」が起こった1949年は7月6日に「下山事件」、同年7月15日に「三鷹事件」が発生していたからです。 事件当時の日本はGHQの占領下にありましたが、国鉄や東芝は復員によって雇用者が増えていました。しかし日本経済はハイパーインフレーションにあえいでおり、緊縮財政のために28万人の公務員を人員整理すると発表していたのです。 中でも国鉄は10万人近くの人員整理が行われており、それが3つの事件につながっていると捜査当局は考えたのです。

合計20人もの国鉄関係者が逮捕、起訴された

「松川事件」の捜査本部は、早い時点から東芝松川工場(現・北芝電機)労働組合並びに国鉄労働組合の構成員による共同謀議だろうと見込んで捜査を行っていました。 そして1949年9月10日に、傷害罪で元国鉄線路工だった少年を逮捕します。その少年は松川事件についても取り調べを受け、同月19日に犯行を自供します。そして、自供の際に共犯者の名前をあげたのです。 その結果同月22日に国鉄労組員5名と東芝労組員2名が、同年10月4日に東芝労組員5名が逮捕されます。さらに同月8日には東芝労組員1名・同月17日に東芝労組員2名が、同月21日に国鉄労組員4名が逮捕されました。逮捕者は合計20名にのぼり、全員が起訴されたのです。

松川事件が発生した背景

(画像:Unsplash

1949年に発生した「松川事件」は最高裁まで争われ、1963年に冤罪事件であることが確定します。日本には様々な冤罪事件がありますが、「松川事件」は戦後最大規模でした。 ここでは「松川事件」においてなぜ冤罪が起こったかを検証するために、当時の時代背景について説明します。

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1分でわかる松川事件

  • 1949年に福島県を通過中だった旅客列車が脱線・転覆し乗務員3名が死亡
  • 国鉄と東芝の労働組合員20名が犯人として逮捕・起訴される
  • 1963年に最高裁で無罪が確定し、戦後最大の冤罪事件となった

「松川事件」は「下山事件」「三鷹事件」と名を連ねる、国鉄三大ミステリー事件に一つに数えられます。一度は犯人が逮捕されたものの最高裁で無罪判決が下り、未解決のまま時効を迎えました。 しかし現代でも関心を持つ人が多く、映画化もされています。今回はそんな「松川事件」の概要と裁判の行方について、解説します。

松川事件の概要

「松川事件」は、1949年の夏に起こった国鉄三大ミステリー事件の一つです。1949年8月に発生し、死者3名を出しています。犯人が故意にレールを外し、列車が脱線・転覆したのです。 ここでは「松川事件」の発生から容疑者逮捕までの概要について、説明します。

事件が発生したのは三鷹事件発生の1ヶ月後

「松川事件」が発生したのは、1949年8月17日3時9分ころとされています。青森から上野に向かっていた412旅客列車が、福島県信夫郡金谷川村(現・福島市松川町金沢)で脱線・転覆したのです。 列車が脱線したのはカーブの入り口あたりで、先頭の蒸気機関車から荷物車・郵便車・客車の順で転覆していきました。 国鉄三大ミステリー事件の一つである「三鷹事件」が起こってから、わずか1ヶ月後のことでした。

この事故で機関車の乗務員3名が死亡

この日旧国鉄東北線の金谷川―松川間を通過中の412旅客列車は、C51形蒸気機関車133号機が荷物車・郵便車・客車を牽引するという形で走行していました。 そして右カーブに差しかかったところで突然、先頭の蒸気機関車が脱線・転覆したのです。 この蒸気機関車には49歳の機関士と27歳・23歳の機関助士2名の3名が乗車しており、事故により死亡しました。

現場検証の結果、人為的事故であることが判明

412旅客列車の事故の一報を受けて、現場検証が始まりました。その結果、列車が脱線・転覆したあたりの線路の継ぎ目部分にあったボルトやナットが緩められていることがわかったのです。 そのうえ継ぎ目板も外され、枕木の上にレールを固定していた犬釘も数多く抜かれていることが確認されたのです。これにより長さ25mのレール1本が外され、13mも移動されていたことがわかります。 この事故は、人為的に起こされたということです。

捜査当局は捜査開始時から国鉄労働組合構成員によるものであると見込みをつけていた

「松川事件」の捜査を始める段階で警察当局は国鉄労働組合構成員によるものであると考え、談話も発表しています。「松川事件」が起こった1949年は7月6日に「下山事件」、同年7月15日に「三鷹事件」が発生していたからです。 事件当時の日本はGHQの占領下にありましたが、国鉄や東芝は復員によって雇用者が増えていました。しかし日本経済はハイパーインフレーションにあえいでおり、緊縮財政のために28万人の公務員を人員整理すると発表していたのです。 中でも国鉄は10万人近くの人員整理が行われており、それが3つの事件につながっていると捜査当局は考えたのです。

 

合計20人もの国鉄関係者が逮捕、起訴された

「松川事件」の捜査本部は、早い時点から東芝松川工場(現・北芝電機)労働組合並びに国鉄労働組合の構成員による共同謀議だろうと見込んで捜査を行っていました。 そして1949年9月10日に、傷害罪で元国鉄線路工だった少年を逮捕します。その少年は松川事件についても取り調べを受け、同月19日に犯行を自供します。そして、自供の際に共犯者の名前をあげたのです。 その結果同月22日に国鉄労組員5名と東芝労組員2名が、同年10月4日に東芝労組員5名が逮捕されます。さらに同月8日には東芝労組員1名・同月17日に東芝労組員2名が、同月21日に国鉄労組員4名が逮捕されました。逮捕者は合計20名にのぼり、全員が起訴されたのです。

松川事件が発生した背景

1949年に発生した「松川事件」は最高裁まで争われ、1963年に冤罪事件であることが確定します。日本には様々な冤罪事件がありますが、「松川事件」は戦後最大規模でした。 ここでは「松川事件」においてなぜ冤罪が起こったかを検証するために、当時の時代背景について説明します。

事件が発生したのはまだ日本がGHQ占領下にあった時代

「松川事件」を含めた国鉄三大ミステリー事件が起こった当時は、まだ日本はGHQの占領下にありました。GHQは日本の民主化を進めていましたが、第二次世界大戦直後は共産主義や労働運動を黙認していました。 しかし1949年に入り中国大陸では中国共産党軍が勢力を増し、朝鮮半島でも共産政権と親米政権が北緯38度線を境に対峙するようになりました。そうした国際情勢を受けて連合国軍は、対日政策を民主化から反共の防波堤へとシフトチェンジします。 そのタイミングで国鉄で10万人の人員整理を行うと発表したため労働争議に発展、国鉄労働組合員の中に共産党員が多数いたこともありレッドパージ(赤狩り)を始めました。

国鉄労組と東芝労連は官公庁の行政施策に反対していた

1949年の日本経済は、ハイパーインフレーションにあえいでいました。そのためGHQは、ドッジ・ラインに基づいて緊縮財政策を実施することを決めます。その中に同年6月1日に施行された、行政機関職員定員法があったのです。 この行政機関職員定員法により国有鉄道は国家公務員から除外され、同日国の公共企業体として発足しました。しかし国鉄に対しても、10万人の人員整理を求めたのです。 こうした行政施策に対し、反対の姿勢をとっていたのが国鉄労組と東芝労連でした。

東北随一の共産党組織の存在

「松川事件」において福島県の国鉄労組と東芝労連が狙われた背景には、当時東北随一の共産党組織が県内に存在したことがあります。 当時の福島県は東北並びに北海道に通じる、交通の要衝でした。さらに首都圏の復興に不可欠な石炭や電力を、供給する拠点でもありました。 そうした土地に力のある共産党組織があり、その影響下で活発な労働運動が行われたいたことが捜査当局の目を向かわせることになったのでしょう。

松川事件では裁判を経るにつれて冤罪が発覚

「松川事件」では別件で逮捕された元国鉄線路工の少年の自供をきっかけに、20名が逮捕・起訴されました。しかし裁判が進んでいく過程で、取調官による脅迫や誘導があったことが明らかになっていきます。そして、20名全員に最終的に無罪判決がくだります。 ここでは「松川事件」の容疑者が逮捕されてから、彼らの冤罪が証明されるまでの裁判の経緯を詳述します。

逮捕された者のうち8名が犯行を自白

「松川事件」の逮捕者は国鉄労働組合員10名、東芝労働組合員10名の20名に及びました。そして20名のうち8名が、犯行を自白したと発表されたのです。 この8名の自白調書は、裁判で証拠として採用されています。しかし実際にはそれらの自白は取調官の脅迫や誘導によってつくられたものであり、事実とは異なるものでした。 その事実が明らかになるのは、第二審以降のことです。

第1審では20名全員が有罪判決、そのうち5名は死刑判決

1950年12月6日、福島地裁で「松川事件」の第一審判決が下されました。全員が有罪とされ5名に死刑、5名に無期懲役が科されています。それ以外の10名については、懲役3年6ヶ月から15年の有期刑でした。 第一審判決を受けて、被告人たちは控訴に踏み切ります。後に明らかになることですが、検察側はこの時点で不都合な自白調書を隠し続けていました。

第2審では3名が無罪になるものの、その他は覆らず

「松川事件」から2年後の1951年、被告の1人が文化人や科学者などに手紙で無実を訴え始めます。それをきっかけに松田解子氏が獄中にいた被告人全員と面会を果たし、 『真実は壁を透して 〜松川事件文集〜』という共作文集を出版します。 それをきっかけに文化人を中心とした「松川事件対策協議会」が組織され、救済運動が盛んになっていきます。 しかし1953年12月22日に仙台高裁で下された第二審判決も、死刑4名を含む17名が有罪というものでした。3名は無罪になったものの、その他の有罪判決が覆ることはなかったため被告人たちは上告しました。

最高裁は第2審を破棄差し戻し

「松川事件」の裁判が進むにつれて、警察側の主張が付き次を覆されていきました。線路を破壊する際に使われたバールは国鉄のものではなかったうえ、犯行に使用されたとされる自在スパナの盗難もなかったのです。 さらに第二審でようやく提出された2組の継ぎ目板も、検察が主張した5名が20分で外せるものではありませんでした。 そうした状況を受けた最高裁は1959年8月10日に第二審判決を破棄し、仙台高裁に審理を差し戻す判決を下しました。

差し戻し審で20名全員の無罪が確定

仙台高裁での差し戻し審判決は、1961年8月8日に下されました。その内容は、起訴された20名全員が無罪というものでした。しかし、「松川事件」の判決がこれでは確定したわけではありません。なぜなら検察側が再上告したからです。 1963年9月12日に最高裁は、検察側による再上告を棄却します。14年かかってようやく、被告人全員の無罪が確定したのです。

被告人らは国に対し損害賠償を請求

無罪判決を勝ち取った被告人とその家族たちはその後、国に対して損害賠償を求める民事裁判を起こしました。 第一審で国家賠償を命じる判決が出たものの、国は控訴します。しかし第二審でも第一審判決を支持したため、国は上告を断念しました。 民事裁判でも被告人たちの無実が証明されたことになります。

松川事件の真犯人の存在

冤罪が証明された「松川事件」には、真犯人が存在します。「松川事件」の捜査において、真犯人の目撃証言が多数得られていたこともわかっていました。しかし、真犯人の特定には至らないまま、20名の冤罪逮捕につながってしまいます。 さらに1958年11月には被告側弁護団の1人に、真犯人からの手紙が届いています。そこには7名が犯行に関わっており、それぞれが名古屋・前橋・岡山にいると書かれていました。 しかし「松川事件」で逮捕された20名の無実が明らかになるまで14年の年月がかかっており、結局真犯人の逮捕には至らないまま公訴時効を迎えてしまいました。

松川事件の現在

「松川事件」は未解決のまま、公訴時効を迎えました。しかし戦後最大の冤罪事件に対する世間の関心は深く、2009年には福島大学で松川事件発生60周年記念全国集会が開かれたほどです。この集会には述べ2,000名が集まったといいます。 ここでは「松川事件」の現在について詳述します。

松川事件研究所が2010年に開設

戦後最大の冤罪事件である「松川事件」を風化させてはならないと考えた福島大学は、2010年5月12日に「松川事件研究所」を開設しました。現在も運営されている「松川資料室」とも連携し、事件に関する様々な研究を行っています。 松川資料室には1984年から収集を始めた資料が集まっており、事前申し込みによる見学も可能です。ウェブサイトでも情報発信を行っているので、興味がある方はアクセスしてみてください。

映画や演劇などの芸術作品、慰霊なども

「松川事件」は、数多くの映画や演劇がつくられています。1952年の「真実は勝利する」を皮切りに1960年の「真実のあかしのために」まで、記録映画が5本あります。 また劇場映画として、1961年の「松川事件」と1965年の「にっぽん泥棒物語」が上映されました。演劇では1955年の「松川事件 真実は壁を透して」をはじめ、5本の作品が上演されています。 さらに公訴時効を迎えた1964年8月15日には、事故現場に近い線路脇に建てられた松川記念塔において合同慰霊祭も行われました。

まとめ

国鉄三大ミステリー事件の一つであり、戦後最大の冤罪事件でもある「松川事件」について説明しました。 こうした冤罪が起こった背景には、日本がGHQの占領下にあったことがあげられます。このGHQや後継組織からの圧力に警察や検察が屈したことが、冤罪事件につながったといっても過言ではないはずです。 現代でも人権や司法のあり方に関して、様々な議論があります。「松川事件」を風化させることなく、今後の教訓としていきたいものです。

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