1分でわかる松橋事件
- 1985年1月20日に宮田浩喜さんを誤認逮捕
- 1993年再審弁護団による証拠開示請求と閲覧により冤罪の可能性が高まる
- 2012年認知症を患った宮田浩喜さんの成年後見人が再審請求し無罪判決を勝ち取る
「松橋事件」とは2019年3月28日に再審判決公判が行われ、冤罪であることが明らかになった事件です。警察や検察の捜査方法や裁判所の審理について、是非が問われた事件でもありました。
松橋事件の概要
松橋事件は、1985年1月8日に起こった殺人事件です。遺体が発見されてから12日後の同月20日、将棋仲間だった宮田浩喜さんが逮捕されました。 宮田さんは同月5日に被害者と激しい口論していたことで捜査線上にあがり、事情聴取中に罪を認めたとされていました。しかし、これが冤罪事件の始まりだったのです。
1985年に起きた殺人事件
熊本県下益城郡松橋町(現宇城市)で1985年に、町営住宅に住む59歳の男性が殺害されました。その方法は、顔や首を刃物で刺すという陰惨(いんさん)なものでした。 事件の3日前に口論していた将棋仲間である宮田浩喜さんは、熊本県警による事情聴取を連日受けます。そして同年1月20日に殺害を自供し即日逮捕され、同年2月14日に殺人罪で起訴されました。 しかし逮捕の時点で証拠とされたのは宮田さんの自白だけで、物的証拠や目撃証言は一切ありませんでした。
冤罪事件として未だ未解決
松橋事件の初公判は、1985年4月8日に行われました。そして同年8月13日に行われた第5回公判で全面否認に転じますが、翌1986年12月22日に懲役13年の有罪判決が下されます。 宮田浩喜さんは控訴しますが、福岡高裁は1988年6月21日に控訴棄却とします。その後上告もしましたが、やはり1990年2月14日に棄却され刑が確定します。 宮田さんは服役し、1999年7月22日には刑期が満了してしまいます。しかし冤罪であることが証明されたのは2019年であり、すでに公訴時効を迎えていました。つまり、未だ未解決の事件といえます。
松橋事件の経緯と冤罪だった宮田浩喜さん
松橋事件は冤罪であることが証明されるまで、34年もの時間を要しました。その背景には、警察や検察の捜査方法と裁判所の審理が適正に行われていなかった事実があるようです。 ここでは松葉事件の発生から冤罪であることが証明されるまでの経緯について、詳しく解説します。
1985年に熊本県で男性の遺体が見つかった
1985年1月8日、被害者である59歳の男性は一人暮らしをしていた部屋で変わり果てた姿で発見されました。その男性の身体には頸部(けいぶ)を中心に15カ所もの刺し傷があり、失血死でした。 司法解剖が行われ、死後2~4日が経過していると報告されました。それを受けて、熊本県警は本格的な捜査を開始します。 そして同年1月5日、被害者と宮田浩喜さんが他2名の将棋仲間の前で口論していたことがわかります。同月6日以降に被害者を見かけた人がいなかったこともあり、熊本県警は宮田浩喜さんを容疑者として調べ始めました。
犯行を自白したため逮捕された
宮田浩喜さんへの事情聴取は、遺体が発見された1月8日の夜には始められました。宮田さんはその際、被害者と口論があったことは認めましたが、自分は殺していないと殺人を否定します。 その後も熊本県警は同月11日を除き、14日まで連日事情聴取を行います。さらに18日にはポリグラフ検査も実施したのです。 検査で陽性反応が出たことから熊本県警はより厳しく追求しました。そして20日に自宅で行われた取り調べにおいて宮田浩喜さんはついに犯行を自白してしまい、宮田浩喜さんは逮捕されました。
裁判で争ったものの懲役13年に
1985年2月14日に殺人罪で起訴された宮田浩喜さんは、初公判前最後の接見に訪れた国選弁護人に対し「否認して争いたい」と訴えています。しかし国選弁護人はそれを良しとせず、「そうしたいなら私選弁護人を依頼する方がよい」と宮田浩喜さんを突き放しました。 そのため国選弁護人の方針に従っていた宮田浩喜さんですが、第一審第5回公判で初めて全面否認に転じます。しかし1986年12月の第一審判決で懲役13年が言い渡され、控訴・上告共に棄却されたことから1990年に刑が確定しました。
2012年に再審を請求
刑が確定した宮田浩喜さんは1999年3月26日に仮釈放されるまで、岡山刑務所で服役していました。そして同年7月22日には、宮田浩喜さんの刑期が満了します。 しかしそれよりはるか前の1992年、上告審から国選弁護人に加わっていた齊藤誠弁護士は再審を視野に入れてすでに行動を開始していました。1992年3月に熊本地裁に対し証拠物の保管を申請したのを皮切りに、1993年5月に宮田浩喜さんに刑務所で接見し、再審請求の準備を始めることを伝えています。 しかし実際に再審請求できたのは、2012年のことでした。
2019年3月に無罪が確定した
齊藤誠弁護士は名張毒ぶどう酒事件の再審請求を手掛けた野嶋真人弁護士をはじめ、確定審で国選弁護人を務めていた三角修一弁護士の息子さんでもある三角恒弁護士と共に弁護団を結成します。 弁護団の3名は何度も自費で現地を訪れ、調査や関係者への聞き取りを行いました。さらに松橋事件の証拠を閲覧し内容を精査すると共に、日本医科大学の大野曜吉教授に法医学鑑定を依頼して鑑定書の内容が遺体の状況と合致しないことを突き止めました。 1996年には日弁連が松橋事件の調査委員会を設置し、2011年に理事会で再審支援を決定しています。しかしその時にはもう宮田浩喜さんは認知症を患っており、自身が服役したことも覚えていませんでした。 そこで2012年に宮田さんの成年後見を申し立て、同年3月2日に衛藤二男弁護士が成年後見人となります。しかし再審請求は2015年9月になってようやく認められ、無罪判決が出た2019年3月までさらに時間がかかりました。
松橋事件の警察の捜査
松橋事件は再審の審理が始まるまでの間に、熊本警察の捜査に様々な問題があったことが明るみになった事件でもあります。自白の強要や証拠の捏造、目撃証言の隠ぺいなど考えられないことが行われていました。
担当刑事による任意の取り調べが9日間にも及んだ
松橋事件で逮捕された宮田浩喜さんの事情聴取が始まったのは、被害者の遺体が発見された夜からです。事情聴取は任意だったものの、その取り調べは9日間で74時間にも及んだのです。 そのため1月19日になると、宮田さんの供述が曖昧になっていきます。そして同月20日には任意同行は拒否したものの、自宅での取り調べには応じてしまいました。そしてついに犯行を自供してしまうのです。
精神的な疲労から自白をしてしまったと思われる
宮田浩喜さんは後に公判で「長時間にわたる取り調べのため精神的に参っており、自白して楽になった方がいいとやけになった」と語っています。実は1月17日の時点宮田さんは熊本県警に対し、「自分は殺害していないが逮捕すればいい」という発言をしていたのです。 逮捕された宮田さんには腰痛の持病があり、連日の事情聴取で疲労困憊(ひろうこんぱい)していたことが予想されます。そうした精神的疲労から、熊本県警に誘導されるまま自白してしまったのでしょう。
松橋事件の問題点
松橋事件の問題は、警察だけにあるわけではありません。物的証拠も目撃証言もない事件で検察が証拠を隠し、裁判所は自白調書だけを根拠に判決を下したことにも責任の一端はあります。
自白の真偽
宮田浩喜さんは当初「軍手をはめ、自宅の作業場にあった切り出し小刀で十数回刺した」と供述していました。さらに「自宅に帰る途中で川に血の付いた軍手を捨て、風呂場で切り出し小刀を洗った」としていたのです。 しかし川から軍手が見つかることも、風呂場からルミノール反応が出ることもありませんでした。そのため2月5日には「もともと切り出し小刀には古いシャツの左袖部分の布を巻いてあり、持ち帰った軍手と共に自宅の風呂焚口で燃やした」と供述を変えています。 この自白の真偽が問われるまで、長い時間がかかりました。
検察による証拠の開示が十分ではなかった
そもそも松橋事件には、物的証拠や目撃証言がありませんでした。犯行を立証するのは、宮田浩喜さんの自白調書しかなかったのです。宮田さんは犯行の供述を途中で変えていますが、2012年3月に行われた再審請求により検察の証拠開示が十分でなかったことが明るみに出ます。その証拠品の中から、宮田さんが焼き捨てたとされるシャツの布片が見つかったのです。 5つあった布片を組み合わせたところ、シャツの形が完璧な形で復元されました。しかし1985年2月14日の時点でシャツを領置されていたのですから、本当は1片が足りない形になるはずだったのです。 このシャツの存在は公判中に明らかにされることなく、証拠開示されるまで熊本地裁に保管されていました。
まとめ
再審無罪を勝ち取るまでに34年もの年月を費やすことになった、「松橋事件」について説明しました。 しかし無罪が認められた宮田浩喜さんは、その事実を自ら理解することはできないのです。そして裁判所の誤判についても、検察の証拠隠しについても謝罪されず、司法当局への怒りの声が上がりました。この事件が再審制度改革につながることを期待したいものです。