1分でわかる枚方事件
枚方事件の要点
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1952年に発生した公安事件
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事件を主導したのは日本共産党
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小松製作所の工場及び民家を襲撃
「枚方事件」とは、戦後間もない1952年に砲弾の製造に反対する日本共産党員や在日朝鮮人らが、小松製作所に払い下げられた工場及び工場関係者と間違えて「小松」姓の民家を襲撃した公安事件です。 この事件によって実行犯を含む98人の共産主義者らが検挙され、放火などの容疑で起訴された65人のうち6人を除いて有罪判決が下されました。
枚方事件の概要
(画像:Unsplash)
1952年に発生した「枚方事件」は砲弾を製造していた小松製作所だけでなく、「小松」姓の民家が誤って襲撃された公安事件であり逮捕者は98人にものぼりました。 事件を主導したのは「朝鮮戦争勃発二周年記念前夜祭」を主催した日本共産党員や北朝鮮系在日朝鮮人ですが、なぜこのような公安事件が起きたのでしょうか。「枚方事件」の概要について紹介します。
小松製作所で兵器の製造が開始された事に共産主義者や学生などが反対
戦後間もない日本は朝鮮戦争による特需で好景気に沸いていましたが、祖国が戦火に包まれていた北朝鮮系在日朝鮮人は日本共産党員らとともに激しい反戦活動を展開しています。 襲撃された小松製作所の工場は、連合国軍最高司令官総司令部の管轄下にあった旧陸軍工廠枚方製造所であり、アメリカ軍に収める砲弾の製造を開始したところでした。 これに対して共産主義者や学生、北朝鮮系在日朝鮮は激しく反発しており、小松製作所は格好のターゲットにされたのです。
小松製作所を爆破させた
1952年6月24日大阪府枚方市ひらかたパーク裏の高塚山では「朝鮮戦争勃発二周年記念前夜祭」が開催されており、約100人の共産主義者や学生、北朝鮮系在日朝鮮人が集まっていました。 実行犯4人は同日未明に小松作業所の第四搾出工場に侵入し、水圧ポンプにダイナマイトを仕掛け爆破します。 しかし、そのほとんどが不発であったため直後に警察は出動しておらず、翌日に小松製作所関係者が不発となったダイナマイトを見つけたことで事件が発覚しました。
小松製作所とは関係のない人物の自宅が襲撃された
「朝鮮戦争勃発二周年記念前夜祭」では過激な演説が繰り広げられていましたが、ここで小松製作所を爆破したことが報告されています。 さらに、枚方市内に居住する「売国奴」と称される人々が実名で指摘され、小松製作所の関係者と間違われた人物の自宅を襲撃することが決議されました。 集会終了後、共産主義者らは小松製作所とは関係のない「小松」姓の人物宅にが大挙押しかけ火炎瓶を投げ込み、家屋や車庫、乗用車の一部に被害を与えます。
枚方事件での逮捕者と判決
(画像:Unsplash)
「枚方事件」は小松製作所に払い下げられた工場の爆破、小松製作所とは関係のない人物の自宅の襲撃といった2つの武力闘争にそれぞれ参加した、共産主義者や学生ら98人が検挙されました。 この2つの武力闘争によっては日本共産党は党員や在日韓国人など多くの逮捕者を出してしまいますが、裁判ではどのような判決に至ったのか説明します。
98名が逮捕された
「枚方事件」では小松製作所の爆破と工場関係者と誤って「小松」姓の民家を襲撃したニ段階の武力行使が強行され、総勢98名が検挙されました。 第一段階においては4名の実行犯が逮捕されていますが、そのうち3人が在日朝鮮人であったことが非常に特徴的です。 第二段階は「朝鮮戦争勃発二周年記念前夜祭」の参加者が中心となって、前夜祭終了後(25日未明)に民家を襲撃していますが、一部学生は直前に火炎瓶攻撃に意義を唱えていたものの強行されました。
そのほとんどに有罪判決が下された
警察に検挙された98人のうち65人が起訴されましたが、その容疑は「発物取締罰則違反」「放火未遂」「公務執行妨害」で6人を除いて有罪判決となりました。 事件当時の逮捕者の年齢は10代が5人、20代が56人、30代が3人、40代が1人であり、圧倒的に20代までの若者が多いことがわかります。 なお、この裁判は最高裁まで争われたため長期化し、結審は事件発生から15年後の1967年11月になり主犯格の7人は一審どおり3年~5年の実刑判決が下されました。
1分でわかる枚方事件
- 1952年に発生した公安事件
- 事件を主導したのは日本共産党
- 小松製作所の工場及び民家を襲撃
「枚方事件」とは、戦後間もない1952年に砲弾の製造に反対する日本共産党員や在日朝鮮人らが、小松製作所に払い下げられた工場及び工場関係者と間違えて「小松」姓の民家を襲撃した公安事件です。 この事件によって実行犯を含む98人の共産主義者らが検挙され、放火などの容疑で起訴された65人のうち6人を除いて有罪判決が下されました。
枚方事件の概要

1952年に発生した「枚方事件」は砲弾を製造していた小松製作所だけでなく、「小松」姓の民家が誤って襲撃された公安事件であり逮捕者は98人にものぼりました。 事件を主導したのは「朝鮮戦争勃発二周年記念前夜祭」を主催した日本共産党員や北朝鮮系在日朝鮮人ですが、なぜこのような公安事件が起きたのでしょうか。「枚方事件」の概要について紹介します。
小松製作所で兵器の製造が開始された事に共産主義者や学生などが反対
戦後間もない日本は朝鮮戦争による特需で好景気に沸いていましたが、祖国が戦火に包まれていた北朝鮮系在日朝鮮人は日本共産党員らとともに激しい反戦活動を展開しています。 襲撃された小松製作所の工場は、連合国軍最高司令官総司令部の管轄下にあった旧陸軍工廠枚方製造所であり、アメリカ軍に収める砲弾の製造を開始したところでした。 これに対して共産主義者や学生、北朝鮮系在日朝鮮は激しく反発しており、小松製作所は格好のターゲットにされたのです。
小松製作所を爆破させた
1952年6月24日大阪府枚方市ひらかたパーク裏の高塚山では「朝鮮戦争勃発二周年記念前夜祭」が開催されており、約100人の共産主義者や学生、北朝鮮系在日朝鮮人が集まっていました。 実行犯4人は同日未明に小松作業所の第四搾出工場に侵入し、水圧ポンプにダイナマイトを仕掛け爆破します。 しかし、そのほとんどが不発であったため直後に警察は出動しておらず、翌日に小松製作所関係者が不発となったダイナマイトを見つけたことで事件が発覚しました。
小松製作所とは関係のない人物の自宅が襲撃された
「朝鮮戦争勃発二周年記念前夜祭」では過激な演説が繰り広げられていましたが、ここで小松製作所を爆破したことが報告されています。 さらに、枚方市内に居住する「売国奴」と称される人々が実名で指摘され、小松製作所の関係者と間違われた人物の自宅を襲撃することが決議されました。 集会終了後、共産主義者らは小松製作所とは関係のない「小松」姓の人物宅にが大挙押しかけ火炎瓶を投げ込み、家屋や車庫、乗用車の一部に被害を与えます。
枚方事件での逮捕者と判決

「枚方事件」は小松製作所に払い下げられた工場の爆破、小松製作所とは関係のない人物の自宅の襲撃といった2つの武力闘争にそれぞれ参加した、共産主義者や学生ら98人が検挙されました。 この2つの武力闘争によっては日本共産党は党員や在日韓国人など多くの逮捕者を出してしまいますが、裁判ではどのような判決に至ったのか説明します。
98名が逮捕された
「枚方事件」では小松製作所の爆破と工場関係者と誤って「小松」姓の民家を襲撃したニ段階の武力行使が強行され、総勢98名が検挙されました。 第一段階においては4名の実行犯が逮捕されていますが、そのうち3人が在日朝鮮人であったことが非常に特徴的です。 第二段階は「朝鮮戦争勃発二周年記念前夜祭」の参加者が中心となって、前夜祭終了後(25日未明)に民家を襲撃していますが、一部学生は直前に火炎瓶攻撃に意義を唱えていたものの強行されました。
そのほとんどに有罪判決が下された
警察に検挙された98人のうち65人が起訴されましたが、その容疑は「発物取締罰則違反」「放火未遂」「公務執行妨害」で6人を除いて有罪判決となりました。 事件当時の逮捕者の年齢は10代が5人、20代が56人、30代が3人、40代が1人であり、圧倒的に20代までの若者が多いことがわかります。 なお、この裁判は最高裁まで争われたため長期化し、結審は事件発生から15年後の1967年11月になり主犯格の7人は一審どおり3年~5年の実刑判決が下されました。
枚方事件と吹田事件の関係

「枚方事件」は日本共産党が同日に引き起こした「吹田事件」とセットで語られ、「吹田・枚方事件」と呼ばれることもありますが、あくまでも別々の事件であり裁判も別々に進められました。 「吹田事件」は、大阪府豊中市の大阪大学豊中キャンパスで開催されていた「伊丹基地粉砕・反戦独立の夕」の参加者約900人が集会後にデモ行進を行い国鉄吹田操車場などを襲撃した事件です。 「吹田事件」「枚方事件」とも日本共産党が引き起こしていますが、党史においては全面的に否定されています。
まとめ

「枚方事件」は朝鮮戦争勃発二周年を翌日に控えた1952年6月24日に、日本共産党が小松製作所及び民家を襲撃した公安事件であり98人が検挙されました。 当時、日本共産党はさまざまな治安事件を頻発させていますが、「枚方事件」は「吹田事件」とともに一部共産党員が引き起こしたものとして、その意義は全面的に否定され日本共産党史からも削除されています。