1分でわかる小平事件
- 終戦前後に発生した連続強姦殺人事件
- 7人目の犠牲者が犯人に繋がって逮捕された
- 小平事件の後によく似た凶悪事件が起こった
小平事件が起きた時代は戦時中で食料不足、仕事不足が慢性化
小平事件の被害は1945年中頃から出始めました。 1945年と言えば第2次世界大戦の末期です。敗戦直前の日本は空襲で街が荒廃し、物資は枯渇していました。戦時中はもちろんのこと、戦後になってからも食糧難は深刻な問題でした。ろくな仕事もなく、人々は食べ物を買うお金にすら困っている状況だったのです。 判明しているだけで7名もの女性が犠牲となるも戦後の混乱期ということもあって犯人はなかなか捕まりませんでしたが、約1年後に犠牲者の遺留品などから容疑者が浮かび上がりました。 犯人は死刑となりましたが、事件後に同様の手口の犯罪が何度か起こっています。
小平事件の概要
事件は最初の犯行から約1年3ヶ月間もの長期間にわたって行われました。なお、事件名は犯人である小平義雄(こだいらよしお)の名前を取ってつけられたもので、同名の地名とは無関係です。 事件の詳細や手口については以下の項目で詳しく紹介していきます。
小平義雄による連続強姦殺人事件
小平事件の最初の被害者は1945年5月25日に出ました。当時、第一海軍衣糧廠で働いていた小平義雄は、女子寮に侵入して女性隊員を強姦して殺害しました。 次の犯行は6月23日のことです。東武鉄道の新栃木駅で主婦に声をかけ、言葉巧みに山中に誘い込んで強姦し、やはり殺害しています。 以後の小平義雄は短い時には数日、長くて数ヶ月の間隔で次々と20代前後の女性を手にかけていきました。犠牲になった女性の数は判明しているだけで7名にのぼります。
食料提供や就職先の紹介を行うと言い山林に連れ込み犯行に及んでいた
最初の犯行を除くと、小平義雄はほぼすべての被害者を同様の手口で犠牲にしています。 当時は食糧難だったことから、配給で足りない食べ物を求めて、闇市へ買い出しに行く者が絶えませんでした。小平義雄は駅周辺で買い出しの女性に目星をつけ、ターゲットにしていたようです。 小平義雄は「米を安く売る農家を知っている」と言ったり、仕事を斡旋するなどとそそのかして、女性を山中や雑木林に誘い出しました。暴力で女性を無抵抗にして強姦し、その後は証拠隠滅するために絞殺していました。
小平事件の犯人・小平義雄
小平義雄は明治時代の栃木県で生まれました。19歳の時に横須賀海兵隊に志願し、中国大陸などに出兵しました。この軍人時代に戦地で敵兵を殺傷したことや、民家を襲って略奪や強姦を繰り返した経験が、後の連続強姦事件に繋がったようです。 ここからは犯人・小平義雄の生い立ちや、事件までの経歴について紹介していきます。
生い立ち
小平義雄は栃木県出身です。1905年1月28日生まれのとされていますが、当時は数え年だったこともあって、その混乱からか資料によって1903年や1904年とバラつきがあります。 少年時代の小平義雄は素行が悪く、弱いものいじめや成績不振で注意されていたようです。また、言葉がつっかえて上手く話せない吃音症でもありました。 尋常小学校を卒業後、上京していくつか職に就くも長続きせず、19歳で横須賀海兵隊に入隊しました。そして戦地で婦女暴行を繰り返し、強姦殺人に目覚めていったのです。
妻の父親を殺害し懲役15年となるが恩赦で出所
海兵隊を退役した小平義雄は、1932年に当時の勤め先の紹介で結婚します。ところが約半年後、小平義雄が他に複数の女性と浮気して子どもまで産ませてたことが判明し、妻は実家に帰ってしまいました。 一向に戻らない妻に腹を立てた小平義雄は、鉄棒を持って妻の実家に乗り込み、家族6人を負傷させて義父を殺害しました。小平義雄はこの事件で懲役15年となりますが、恩赦によって刑が軽くなり、1940年に仮出所します。 その後、小平義雄は1944年に再婚しています。この再婚相手と子どもは小平事件の前は田舎へ疎開していたようです。
小平事件の犯人逮捕と判決
小平義雄の犯行は1年以上続けられていましたが、7人目の遺体が発見された時に、ようやく彼の関与が発覚しました。逮捕後の自供によって、7件の強姦殺人が同一犯によることが明るみとなります。小平義雄は10件の事件への容疑で起訴され、1948年に死刑判決が出されました。 逮捕の経緯と裁判については以下で詳しく紹介していきます。
被害者女性の遺体が発見され事件が発覚、逮捕につながる
1946年8月17日に事件の被害に遭った7人目の犠牲者が発見されました。この遺体は後に、8月4日から行方不明になっていた少女だということがわかります。 事件の数日前、自宅に小平義雄が訪ねてきたことを被害者少女の母親は記憶していました。さらに少女の日記にも小平義雄の名前があったことが容疑の決め手となりました。 小平義雄は8月20日に渋谷区の自宅で逮捕されました。
死刑判決が下される
裁判にあたって行われた精神鑑定では、小平義雄の精神的異常を認めつつも責任能力があると判定されました。 小平義雄は10件の殺人容疑で起訴されましたが、3件は証拠不十分の無罪となり、7件で死刑が出ました。小平義雄の手記によれば、他に30件以上の強姦もしていたようです。 すべての判決から約1年後、1949年10月5日に小平義雄は死刑執行されました。享年は44歳でした。執行当日の小平義雄は非常に落ち着いた様子で、死刑宣告された後にまんじゅうとたばこで一服し、妻に遺言状を残したそうです。
小平事件に類似する事件
小平事件の後、よく似た連続殺人事件が起こっています。それは「大久保清連続殺人事件」と「第二小平事件」です。前者は強姦殺人という点がよく似ており、後者は強盗目的の事件でしたが手口が小平事件を連想させました。 ここからはこれら2つの事件について紹介していきます。
大久保清事件
1971年の3月から5月にかけて群馬県で行われた事件です。犯人は大久保清という男で、犯行期間2ヶ月の間に10数人の女性と関係を持ち、そのうち8人を殺害して死体遺棄しました。 大久保清は当時最新のスポーツカーを乗り回し、女性に声をかけて車内に連れ込んで性的行為に及びました。強姦罪に問われているのは8人目だけですが、被害者の多さと性行為が目的と見られたことから「群馬の小平」とも呼ばれたようです。 1973年3月に死刑が確定し、1976年1月に死刑執行されました。
第二小平事件
1946年から1947年に東京都で起きた3件の連続殺人事件です。小平事件と同じく買い出しの女性がターゲットでした。犯人は食料品や仕事の斡旋をちらつかせて女性を山林に連れ出し、絞殺の後に金品を奪いました。 小平事件と同じく、終戦直後の貧困が背景にある事件です。時期の近い類似事件なので第二小平事件と呼ばれていますが、強姦ではなく強盗が目当てだったという違いがあります。 犯人は1950年2月に死刑が確定しました。
小平事件を題材にしたと思われる映画
小平事件は社会的に大きな影響を与えた事件でした。戦後に起きた猟奇的事件として知られていたことから映画などの題材にもなっています。 たとえば1967年に公開された『続日本暴行暗黒史 暴虐魔』は小平事件をモデルとしています。1969年公開の『明治大正昭和 猟奇女犯罪史』はオムニバス映画となってり、そのうちの1編で小平事件が再現されました。 また、坂口安吾の短編を元にした2013年の映画『戦争と一人の女』には、小平義雄がモチーフとなった大平義男という人物が登場します。
現代になってもなくならない強姦殺人事件
悲劇的な強姦殺人事件は現代日本でもなくなっていません。中でも最も有名なのは山口県で起こった光市母子殺害事件でしょう。1999年の4月14日、当時18歳だった犯人がアパートに押し入って、23歳の女性と生後11ヶ月の娘を殺害しました。 動機は強姦でした。女性に抵抗されたことから殺害して屍姦し、次いで泣き止まなかった娘も窒息死させたのです。事件の重大性と犯行当時すでに18歳だったことから、刑事裁判で死刑判決が出されました。 この事件で遺族となった男性の働きが、被害者の権利を守る「犯罪被害者等基本法」が成立するきっかけにもなりました。
強姦殺人事件をなくすためには
重要なのは個人個人の危機意識と防犯対策です。 事件を他人事と捉えずに「自分も巻き込まれるかもしれない」と警戒心を持つことが大事です。その上で過去の事件の経緯を調べて、同様の事件に遭遇する危険性を下げるようにしましょう。 市役所や最寄り警察署のホームページに地域の犯罪情報が掲載されているはずなので、定期的なチェックがおすすめです。他には携帯電話に緊急連絡先を登録したり、避難先を用意しておけば、何かが起きた時にも安心です。
まとめ
小平事件発生の背景には終戦前後の貧困がありましたが、強姦殺人は現在でもなくなっていません。悲惨な被害者を出さないためには、社会はもとより個人の意識改革が必要です。 小平事件を大昔の他人事とは思わずに、ぜひともこの事件を通して犯罪に警戒心を持ち、防犯意識の向上に役立ててください。