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上尾事件事件は国鉄の順法闘争に対する乗客達の暴動。首都圏国電暴動の契機である事実や時代背景とは。

もくじ

1分でわかる上尾事件

上尾事件の3つの要点

  • 国鉄高崎線上尾駅にて、乗客により起きた暴動事件
  • 主な原因は国鉄職員による「順法闘争」
  • 首都圏国鉄暴動の契機になった

「上尾事件」は1973年3月13日、国鉄高崎線上尾駅にて起こった、乗客による暴動事件です。その主な原因は国鉄職員による順法闘争で、乗客の国鉄へのフラストレーションから大きな暴動事件へと発展しました。 さらにこの「上尾事件」を契機に、首都圏国鉄暴動へとつながるのです。

上尾事件の起きた時代背景

「上尾事件」が起きた1973年の日本は高度経済成長の真っ只中で、首都圏では人口が一気に増加し、首都圏沿線を利用する乗客も増え続けていました。 しかしながら国鉄は当時赤字経営だったためか、新車両導入やピーク時の列車の本数を増やすなど、増加する乗客への対応は一切できずにいました。

国鉄職員は労働組合によりストライキが禁じられていた

当時の国鉄では、賃金の引き上げや労働環境の改善のために労働闘争が行われていました。 しかし、公共企業の職員である国鉄社員は公労法第17条によってストライキ行為を禁じられていたのです。 また当時の国鉄は赤字経営だったため、新車両の導入や増便、増員などといった施策に対して消極的でした。国営である国鉄は急速に発展していく日本社会についていけていなかったのです。

国鉄職員は順法闘争で対抗

ストライキを禁じられていた国鉄職員は「順法闘争」という形で自分たちの権利を勝ち取ろうとします。 「順法闘争」というのは、安全運転という名目で運行速度を落としたり、一旦停止をしたり、過剰に安全規範を遵守し、計画的にダイヤを遅らせるというものです。 ストライキという形ではないにしても、実質的にはストライキに近い形で労働闘争をしていたといえます。

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1分でわかる上尾事件

  • 国鉄高崎線上尾駅にて、乗客により起きた暴動事件
  • 主な原因は国鉄職員による「順法闘争」
  • 首都圏国鉄暴動の契機になった

「上尾事件」は1973年3月13日、国鉄高崎線上尾駅にて起こった、乗客による暴動事件です。その主な原因は国鉄職員による順法闘争で、乗客の国鉄へのフラストレーションから大きな暴動事件へと発展しました。 さらにこの「上尾事件」を契機に、首都圏国鉄暴動へとつながるのです。

 

上尾事件の起きた時代背景

「上尾事件」が起きた1973年の日本は高度経済成長の真っ只中で、首都圏では人口が一気に増加し、首都圏沿線を利用する乗客も増え続けていました。 しかしながら国鉄は当時赤字経営だったためか、新車両導入やピーク時の列車の本数を増やすなど、増加する乗客への対応は一切できずにいました。

国鉄職員は労働組合によりストライキが禁じられていた

当時の国鉄では、賃金の引き上げや労働環境の改善のために労働闘争が行われていました。 しかし、公共企業の職員である国鉄社員は公労法第17条によってストライキ行為を禁じられていたのです。 また当時の国鉄は赤字経営だったため、新車両の導入や増便、増員などといった施策に対して消極的でした。国営である国鉄は急速に発展していく日本社会についていけていなかったのです。

国鉄職員は順法闘争で対抗

ストライキを禁じられていた国鉄職員は「順法闘争」という形で自分たちの権利を勝ち取ろうとします。 「順法闘争」というのは、安全運転という名目で運行速度を落としたり、一旦停止をしたり、過剰に安全規範を遵守し、計画的にダイヤを遅らせるというものです。 ストライキという形ではないにしても、実質的にはストライキに近い形で労働闘争をしていたといえます。

高崎線は周囲の住民のライフラインだった

当時の高崎線は首都圏と日本海側を結ぶ重要な路線でした。また、高崎線沿線は東京のベットタウンとしても機能していたため、沿線居住者は増加の一途を辿っていました。 通勤・通学のラッシュ時間帯には定員の2~3倍の乗客が利用し、駅は常に人で溢れていました。 急増する乗客への対応が迫られていたにも関わらず、順法闘争の影響で、通常であれば上尾〜上野間は37分で到着するところ、3時間かけて到着することもあったのです。

上尾事件の概要

「上尾事件」は1973年3月13日、国鉄の高崎線上尾駅にて起こった乗客による暴動事件です。当時、国鉄は乗客の急激な増加に対応しきれていませんでした。それを不満を思っていた乗客たちのフラストレーションはその日、頂点に達しました。 乗客は運転席や駅の事務室になだれ込み、駅員や運転席、駅の設備などを破壊して回ります。警察の機動隊が出動し、多数の逮捕者を出す暴動事件へと発展しました。

ラッシュ時に合わせて順法闘争を行なった

1973年3月13日、国鉄高崎線の上尾駅では、前日の順法闘争の影響で4本の電車が運休、2本が遅延しました。 そのため、上尾駅には始発の時間から1時間以上到着する電車はなく、大勢の乗客が駅のホームで待っていることになりました。 列車の出発がわからないまま、すでに電車には定員の3倍以上の3,000人が乗車していました。一方、駅のホームには5,000人を超える人がいました。

多くの乗客が電車を使えず困惑した

企業に勤めている場合、鉄道会社のストライキがあれば会社を休むことができますが、ダイヤの遅れの場合は出社しなければなりませんでした。 もちろん、当時は携帯電話もありませんので、駅にいながら会社に状況を説明することもできません。 電車がいつ到着、発車するかわからない状況で、異常なまでに混雑している駅のホーム、乗客のフラストレーションは頂点に達していました。

追い討ちをかけるかのように、列車の運行停止をアナウンス

フラストレーションの溜まった状態で、待たされている乗客に対し、国鉄側はホームに停まっていた2本の上野行き列車を「2駅先の大宮駅までで運行を中止する。」という旨のアナウンスをしました。 このアナウンスをきっかけに大規模な暴動へと発展していきます。 駅のホームで何時間も待たされたことや、これまでの度重なる運休や遅延、改善の見えない職務怠慢など、今まで国鉄に対して溜まっていた不満が一気に爆発した形となったのです。

乗客による暴動が始まる

乗客たちは怒りに身を任せ、窓ガラスを割り運転席に乗り込みます。身の危険を感じた運転手は逃げ出しました。 それだけではなく、駅の事務室にも押し入り設備を破壊し、駅員にも暴行を加えました。 暴徒と化した乗客たちは駅を占拠しました。駅員による通報で警察の機動隊が駆けつけましたが、すでに手に負える状況ではなく、しばらくにらみ合いが続き、最終的には多数の負傷者や逮捕者を出す事態となりました。

上尾事件では国鉄職員の職務怠慢問題などが提起された

そもそもの原因は国鉄の乗客への対応にありました。時代の変化によって増加していった乗客への対応もせず、社員も自分たちの権利のためにわざとダイヤを乱し、自分たちのことしか考えていない企業と受け取られても仕方ない対応でした。 とはいえ、国鉄という企業自体は国が守ってくれるためにいくら経営赤字でも問題ない。経営陣はおろか、現場で働いている従業員ですら、自分たちのことしか考えていない。 このような国鉄の「殿様運営」に対して乗客たちの怒りや不満が爆発した形になりました。

上尾事件は首都圏国電暴動の契機となる

「上尾事件」により、首都圏の鉄道は大混乱に陥りました。翌日には私鉄や地下鉄が大混雑となり、鉄道の運休や乗客たちの職員に対する暴行など、お互いの行動はエスカレートしていきました。 しかし国鉄は乗客へ謝罪することもなく、順法闘争も懲りずに続け、その結果、乗客たちの怒りはますます大きくなっていきました。 そして4月24日には首都圏国電暴動という大規模な暴動が再び起こり、「上尾事件」以上の被害を残す結果となってしまいました。

まとめ

「上尾事件」は乗客への対応、社員の勤務態度、赤字経営など、当時の国鉄の経営や会社としての「在り方」が浮き彫りになった事件の一つではないでしょうか。 現在では通勤ラッシュの混雑やストレス緩和のために様々な対策がなされています。こういった、乗客を配慮しての改善対策は「上尾事件」がきっかけの一つもしれません。

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