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市川一家4人殺人事件は凶悪な強姦殺人。関光彦死刑囚や事件の経緯やに関して徹底考察。

もくじ

1分でわかる市川一家4人殺人事件

  • 千葉県で起きた強盗殺人・強盗強姦事件で一家4名が殺害される
  • 長女が訪ねた父親の会社の従業員による通報により犯人逮捕
  • 少年犯罪としては平成初の死刑確定・執行された刑事事件

市川一家4人殺人事件の概要

千葉県市川市で市川一家4人殺人事件が起こったのは、1992年3月5日の夕刻から翌6日の朝方にかけてでした。 同年2月に犯人である関光彦が、下校途中の女子高生を強姦したことが始まりです。女子高生が被害にあった際、関に身分証明書を強奪されたことが引き金となってしまいました。 ここでは、市川一家4人殺人事件の概要について詳述します。

関光彦は傷害事件や強姦事件や暴力団とのトラブルを起こしていた

市川一家4人殺人事件を起こす前、後に犯人となる関光彦は女性関係を巡って暴力団とトラブルになっていました。 その原因は1992年2月6日に関が、市川市内にあるフィリピンパブのホステス2名を店に無断で自宅に連れ込んだことです。さらにアパートで2名の女性と性的関係を持つだけでなく、2日間自宅に監禁し暴行も加えました。 その後店に戻った女性たちから事の顛末(てんまつ)を聞き、フィリピンパブの経営者は激高します。そして暴力団に落とし前をつけるよう依頼したことから、関は追われる身となりました。

暴力団から200万円を請求されていた

関光彦は1992年2月8日以降、暴力団に追い込みをかけられていました。そのストレスを発散するかのように、暴行・強姦事件を起こしています。 1992年2月11日に東京中野区で、24歳の女性に襲い掛かります。鼻骨骨折というケガを負わせたうえ、車で自宅アパートに連れ込み強姦します。 さらに翌12日は後に市川一家4人殺人事件の被害者となる、一家の長女を強姦します。その現場で長女の生徒手帳を取り上げ、名前と住所を控えたうえで黙っているよう脅迫したといいます。 そしてこの日の夜、関は暴力団の組長に呼び出され200万円の慰謝料と売上損失分を請求されました。

金の工面ができなく、以前強姦をした少女の家への強盗を企てる

暴力団組長に200万円の支払いを承諾させられたものの、関光彦にそれを用立てるすべはありませんでした。暴力団の組員が自宅に取り立てに来ることもあり、車中泊をくり返すようになります。 そして手持ちの現金がなくなりかけた時、強盗することを決意します。その侵入先として選んだのが、前月に強姦した女子高校生の自宅でした。 関は被害者である少女の個人情報を得ていたため、家族の在宅状況を探るために何度か電話をかけたといいます。また2月下旬から3月1日にかけて、何度か現場となるマンションに足を運んでいました。

一家4人を殺害

関光彦が被害者宅に押し入ったのは、1992年3月5日の16時30分ころでした。ドアには鍵がかかっておらず、同居していた祖母がうたた寝していました。この祖母が最初の被害者となります。 関が室内を物色していると、強姦事件の非会社である少女と母親、少女の妹が揃って帰宅しました。そして母親を視察し、少女を部屋に監禁します。21時40分過ぎに帰宅した父親を脅し、通帳が自宅だけでなく勤務先にもあることを聞き出したうえで殺害します。 その後、少女は関に連れられて父親の勤務先を訪れるために連れ出されています。その間、わずか4歳だった末の妹は亡くなった祖母の側で眠っていたとされています。 しかし少女と共に関が再び被害者宅に戻った際、末の妹が目を覚まし泣いたところを刺殺しました。

少女の父親の会社の人間による通報で関光彦が逮捕される

関光彦が逮捕されるきっかけとなったのは、父親の勤務先の従業員が警察に通報したことがきっかけでした。まだ高校生である少女が深夜に事務所を訪れたことを不審に思い、通報に至ったようです。 1992年3月6日1時30分ころ通報した従業員は、葛南署員を伴って被害者宅を訪れました。しかし電話にもチャイムにも反応がないため、警察官は不在と判断し引き上げます。 同日の早朝に再び少女から連絡を受けた従業員は、同日の8時過ぎに通報します。そこで警察官が隣のベランダから被害者宅に入り、凄惨な殺害現場を目にしました。そしてその場にいた関光彦が、現行犯逮捕されたのです。

 

市川一家4人殺人事件の裁判と判決

関光彦は市川一家4人殺人事件を起こした当時、19歳の少年でした。そのため裁判の行方に注目する人も多かったようです。また関本人も、未成年であれば極刑はないと高をくくっていた節があります。 ここでは市川一家4人殺人事件の裁判と判決について、詳述します。

最高裁で少年犯罪初の死刑判決

1992年3月6日に現行犯逮捕された関光彦は、同月25日に送検され精神鑑定を受けることとなります。同年10月1日に精神鑑定書の結果を踏まえ、千葉地検は関を千葉家裁へ送致しました。 しかし4回にわたる少年審判を経て、同月25日に関は千葉地検に逆送致されます。同年11月5日に強盗殺人罪などで起訴された関は、1994年8月8日に死刑判決を受けます。 関と弁護人は即日控訴しましたが、1996年7月2日に控訴審でも死刑判決が下されました。関と弁護人は即日上告しますが、2001年12月3日最高裁は上告を棄却します。これにより平成の少年犯罪で初めて、死刑判決が確定しました。

2017年に死刑は執行された

当時19歳の少年に対する死刑判決は、世間でも賛否両論がありました。関光彦本人も最高裁の判決を不服として、2006年に再審請求をしています。しかし、審理が行われることはありませんでした。 そして死刑確定から16年の月日が流れた2017年12月19日、関への死刑が執行されました。犯行当時に少年だった死刑囚への刑執行は、1997年の永山則夫以来でした。そして関が第三次再審請求を棄却した東京高裁に対し、即時抗告を行っていたこともあり注目を集めたようです。

市川一家4人殺人事件は少年犯罪だが実名報道された

市川一家4人殺人事件は、犯人が当時少年だったにも関わらず実名報道・写真公開されたことでも有名です。実名報道・写真公開を行ったのは、新潮社が発行していた「週刊新潮」と「FOCUS」でした。 それに対し東京弁護士会は1992年3月25日付けで新潮社に抗議文書を郵送したほか、マスコミ報道に関する問題提起を行いました。しかし2017年12月19日の死刑執行以後は、実名報道・写真公開に踏み切るところが多かったようです。

まとめ

平成の少年犯罪として今後も語り継がれるであろう、市川一家4人殺人事件について解説してきました。 少年による凄惨な犯罪は後を絶つことがなく、少年法の改正については現在も活発な議論が行われています。こうした少年犯罪が抑制されるよう、今後の法改正やマスコミ報道にも注目していきたいところです。

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