1分でわかる金嬉老事件
- 旅館を舞台にした劇場型犯罪事件
- 殺人事件は民族問題に移り変わる
- 犯人をモデルにしたドラマや映画も多数できる
金嬉老事件は銃を持った殺人犯が籠城先の旅館で記者会見を行うなど、日本で初めての劇場型犯罪事件です。 在日韓国人の犯人が警察の差別発言を糾弾する事で、殺人事件が民族問題へと発展します。マスコミによって凶悪殺人犯が民族差別と闘う英雄になっていきます。過熱報道は国民の関心を引き、事件を題材にした映画やドラマも数多く作られました。
1分でわかる寿産院事件
- 被害者100人以上の嬰児が殺害された大量殺人事件
- 被害者は寿産院の経営者が新聞広告等で募集した乳幼児
- 貧困層の母親からの養育費と補助金を詐取するのが目的
寿産院事件の時代背景

寿産院事件が発覚したのは1948年1月のことでした。寿産院があった当時の東京都新宿区にはまだ第二次世界大戦敗戦のダメージが残っていました。 ここでは寿産院事件が起こった当時の時代背景について詳述します。
戦後で食料や物資が慢性的に不足していた
第二次世界大戦の敗戦から3年目を迎えた1948年当時日本はまだGHQの占領下にありました。 東京は東京大空襲を受けて焼け野原になったダメージからまだ回復できておらず、東京都の食糧事情が悪い状態が続いていました。もちろん医薬品を含めた日常物資も慢性的に不足していました。 また東京都には戦災孤児も多く、治安も決してよいとはいえない状況でした。
ベビーブームや戦争孤児の影響で子供がかなり多かった
食糧や様々な物資が足りない状況でしたが、1948年になると復員してくる軍人も多く日本はベビーブームを迎えます。 空襲によって戦争孤児が増えており、当時の東京都では数多くの子供が暮らしていました。 そうした状況もあって貧困に耐えかねて子供を手放す親も少なくなかったようです。
寿産院事件の概要

寿産院事件は第二次世界大戦中だった1944年から1948年の間に発生しました。戦争によって混乱していた時代において、寿産院の院長夫婦は子供を数多く預かり養育していたそうです。 ここでは寿産院事件の概要を詳述します。
戦時中から戦後にかけて寿産院事件では幼児の育児を代行していた
寿産院が東京都新宿区で開院したのは1944年のことです。寿産院の院長夫妻は戦時中から我が子を育てるのが難しい家庭の子供を引き取り養育していました。 中には自分たちの養子にするといって子供を引き取ったケースもあったとされています。そして引き取った子供を届け出た記録が区役所にも残されていました。 区役所の台帳に残っていた寿産院が預かった子供は204人いたはずでした。しかし後に台帳を確認したところ、母親の氏名や住所の大半は偽名だったことが判明しています。
児童に対し虐待を行い多くの児童が殺害された
1944年から1948年に寿産院に対し区役所が発行した埋葬確認証は103枚にのぼります。 1948年1月16日に警察が寿産院を捜査した時にいたのはわずか7人の乳幼児でした。しかしそのうちの1人は死亡しており、残る6人も泣き声をあげられないほど衰弱していました。 区役所に届け出た養育する子供の数から埋葬確認証の発行枚数を引けば、ここで養育されている子供はもっといるはずでした。後に明らかになることですが院長夫婦は児童虐待を行い、数多くの子供が殺害されていました。
補助金や配給や幼児の親からの仕送りを不正に得ていた
寿産院の院長である妻は東京大学出身で、牛込産婆会の会長を務めるほど周囲からの信頼を得ていたようです。元警視庁・巡査だった夫がいたことも人物保証に影響したと考えられます。 しかし乳幼児を預かり養育することで親から養育費を、子供が欲しい夫婦に渡すことで養子あっせん料を得られることに気づきます。また子供を養育することで、東京都からも補助金を受給することが可能でした。 さらに特例措置として産院向けに配給されていたミルク・米・砂糖なども闇市に横流しするなど、2人は私服を肥やすことに邁進することとなります。
葬儀屋が幼児の遺体が入った箱を運んでいたことがきっかけで事件が発覚
寿産院事件が発覚するきっかけになったのは1948年1月12日に葬儀屋の男が逮捕されたことです。パトロール中だった警官が大きな木箱を運ぶ男を不審に思い事情聴取をしました。 その際に荷台にあった木箱を開けさせたところ、中から乳児の遺体4体が見つかります。警察官が遺体の出所を追求された葬儀屋の男は「寿産院から依頼された。」と供述します。 さらにこれ以前にも寿産院から遺体運びを依頼されており、1947年8月から20体以上になると説明しました。これにより寿産院に疑惑の目が向けられることとなります。
寿産院事件の犯人と裁判

寿産院事件の犯人である院長夫妻が逮捕されたのは1948年1月15日のことです。葬儀屋の男を逮捕した後で警察は乳児の遺体を司法解剖しています。その結果死因や児童虐待の痕跡があることが明らかとなっての逮捕でした。 ここでは寿産院事件の犯人と裁判について詳述します。
石川ミユキと石川猛
寿産院を経営していたのは産婆の石川ミユキ容疑者と警視庁の警官の石川猛容疑者でした。 石川ミユキ容疑者と石川猛は結婚しており夫婦で寿産院を経営していたとされています。 石川ミユキ容疑者は東京大学医学部を卒業しており、夫の石川猛容疑者は事件当初は辞していましたが、かつては警官として働いていた過去があることから、夫婦に対する世間からの信頼は厚かったことが推測されます。 世間からの信頼の厚さが事件発覚を遅らせたと捉えることもできます。
医師と結託し死亡診断書を提出していた
産婆である石川ミユキ容疑者とその夫の石川猛容疑者は日ごろから区役所職員に対して酒をふるまうなどしていました。それにより子供の戸籍手続きや衛生に関する取り締まりの際便宜を図ってもらっていたようです。 同様に子供を預かることで得た利益を分配する形で、医師とも結託して子供の死亡診断書を書かせていました。 こうした背景もあって寿産院事件は事件が発覚するまでに時間を要しました。
石川ミユキ、石川猛、医師などに実刑判決が下るも、殺人罪ではなかった
石川ミユキ容疑者と石川猛容疑者の供述により寿産院で働いていた助産婦と死亡診断書を偽装した医師も逮捕・起訴されました。寿産院事件が結審したのは1952年のことです。 石川ミユキ被告に懲役8年、石川猛被告に懲役4年という判決が言い渡されました。しかし2人とも殺人罪については証拠不十分で無罪となっています。当時の捜査技術でかつ寿産院という閉鎖的な環境で行われた事件であるため2人が直接的に殺人を犯したと断定することが不可能でした。2人は控訴したものの第二審で石川ミユキ被告に懲役4年、石川猛被告に懲役2年という判決となりました。 また第一審で助産師は無罪となりましたが、共謀した医師は禁錮4年の有罪判決を受けています。
寿産院事件は一種の貧困ビジネスの側面も

寿産院事件はあってはならない事件でしたが、現代の貧困ビジネスに通じるものを感じます。戦後の混乱で生活がままならない人が多く、現在のように堕胎が認められる時代でもなかったことが事件の背景にありました。 石川ミユキ被告は裁判の中で、「運ばれてきた時点で命の危険があった子もいた。」と抗弁したと伝えられています。また貧困にあえぐ時代に他人の子供を預かって養育するところはほぼなかったこともまた事実でした。 もちろんだからといって、乳幼児を利用して貧困ビジネスを行っていいという理由にはなりません。
幼児の虐待死は今でも多い

食糧や日常物資が不足する戦後の混乱の中では弱者である子供たちを育てるのは容易なことではありませんでした。しかし戦後70年を経て戦後のような貧困家庭は少ない現代でも幼児の虐待死はなくなっていません。 ことに最近は実の親に虐待死させられる乳幼児が増えています。いつの時代も弱者である子供が標的になり続けています。 大人の身勝手な考えによって何の罪もない子供たちが犠牲になるなどあってはならないことです。
現代の幼児虐待事件

2018年3月5歳の女の子が義父の虐待によって死亡した目黒女児虐待死事件が起こりました。また2019年1月には父親に小学校4年生の女児が虐待死させられた野田小4女児虐待事件が発生しています。 近年の幼児虐待事件は虐待が発覚しないように加害者が暴力を加えることが増えているようです。また一度は児童相談所が介入しても助けきれないケースもあります。 幼児虐待事件が起こった時に加害者や行政を責めるだけでは問題は解決しません。皆が当事者意識を持って子供たちを守ることができるような地域社会づくりが望まれます。
金嬉老事件の概要
1968年2月20日に殺人犯が静岡県の寸又峡(すまたきょう)温泉にあった「ふじみや旅館」で起こした監禁籠城事件の事です。 犯人は、人質解放の条件に警察による在日韓国人への差別発言の謝罪を要求します。手出しできない警察を横目にマスコミを呼んで記者会見をする犯人は「コリアンの英雄」に祭り上げられました。この事件の経緯を説明します。
暴力団と金銭トラブルに陥り暴力団組員2名をライフルで殺害
犯人の名前は在日韓国人2世の金嬉老(キンキロウ)当時39歳です。 1968年2月20日、手形トラブルが原因で借金の返済を求めれていた金嬉老は静岡県清水市(現・静岡市清水区)の歓楽街にあるクラブ「みんくす」で暴力団員2名(1人は未成年)と面会します。 借金返済の口論が続き金は一旦その場を離れますが、再び現れた時には持ってきたライフル銃を乱射して2人を殺しました。店を出た金は、止めていた乗用車で逃亡します。
その後ふじみや旅館に立て篭もり従業員と客を人質にとった
警察の検問も逃亡する金を見つけられませんでしたが、2月21日0時20分頃に金は清水署に連絡を入れます。金自身がその居場所を警察に伝えています。 静岡県にある寸又峡(すまたきょう)温泉の「ふじみや旅館」に押し入った金は、宿泊客と従業員13人を人質にして立て籠もります。金は人質に対して、自分や同胞が朝鮮人としてどれほどの差別を受け苦しんだかを話し、危害を加えない事を約束しています。
人質の解放の条件として「警察の朝鮮人差別に対する謝罪」が要求された
ライフル銃とダイナマイトで武装する金は「朝鮮人を馬鹿にした刑事はテレビで謝れ」と謝罪を要求します。 翌朝、警察当局は金に対して異例の呼びかけを行います。この放送を聞いた金は、婦人と子供4人を解放しテレビカメラを呼び入れて記者会見を行います。 金の要求に従い、陣頭指揮を執った刑事と名指しされた清水署の巡査部長が差別発言について詫び、その様子がNHKで放映されます。
日本全国と韓国で実況中継がされるほど注目された
浅間山荘事件、よどこうハイジャック事件の前に起こった劇場型犯罪事件は日本のみならず韓国でも実況中継されます。 ワイドショーは人質の安全や家族への配慮もなく報道合戦は過熱します。「ふじみや旅館」に電話を入れ、金と話す場面も放映されます。テレビ局は金にライフル発射を要求し、それに応えて金は空に向かって発砲します。 2月24日、人質の解放時に記者に紛れた刑事が金に飛びつき、88時間の監禁籠城事件が幕を下ろします。
金嬉老事件の裁判と判決
静岡刑務所に収容された金は、殺人罪、逮捕監禁罪、爆発物取締罰則違反で起訴されます。 報道は韓国でも大きく取り上げられ殺人事件と民族問題が複雑に絡み合う公判が続きます。 1972年6月、死刑求刑に対して静岡地裁は無期懲役の判決を下します。弁護団は控訴しますが、1975年に無期懲役が確定します。続いて拘留中の金について説明します。
金嬉老には無期懲役判決が下された
無期懲役が言い渡された金ですが、刑務所内での特別待遇も明らかになります。 金の独房には鍵がかかっていなかったので自由に出入りできます。刃物も持ち込まれており面会もできる環境です。金が自殺をほのめかした事で規則違反はますますエスカレートして行きます。 同時に刑務所の管理体制も問題になります。職員13人が処罰を受け、包丁を持ち込んだとされる職員はその後自殺しています。
金嬉老は日本への入国が禁止された
熊本刑務所などで服役していた金は、二度と日本に入国しない事を条件に仮釈放が認められます。1999年韓国へ強制送還され釜山に送られます。 晩年は「母親の墓参りをしたい」との希望から韓国政府を通じて日本の法務省に嘆願書を出そうとします。しかし、その願いは叶わず2010年3月26日前立腺がんで亡くなりました。 生前の金は自分の骨を母親の墓に一緒に埋葬してほしいと願っていたが、身内の反対でそれも叶いませんでした。
金嬉老事件の犯人と生い立ち
弱虫で意地っ張りであった少年は、多くの在日韓国人がそうであったように差別や貧困に苦しみ、その環境から逃れようと非行に走ります。 1943年、金は窃盗をして収監された相愛少年保護員院で終戦を迎えます。1946年にも窃盗罪と横領罪で起訴され服役しており、戦後も窃盗や詐欺、強盗などで多くの時間を刑務所で過ごします。続いて金の育った家庭を見ていきましょう。
金嬉老の生い立ち
1928年、金は静岡県清水市で生まれます。 金が5歳の時に土木作業員を束ねていた父・権命術(クオン・ミョンスリ)を事故で亡くします。その後は母・朴得淑(パク・トウクスク)がクズ拾いなどをしながら4人の兄弟を育てます。韓国の服に身を包んだ母は、購入したリアカーで清水市内のゴミくずを集めて回ります。 朝鮮人である事から罵られ石を投げられる幼少期の金の心は、荒んでいきました。
金嬉老は金嬉老事件の後も問題を起こし続けた
韓国に強制送還された金は差別と闘った「コリアンの英雄」として韓国国民に温かく迎えられ、手記や講演会などマスコミにも登場します。 しかし刑務所生活が長く、韓国語も流暢に話せなかった事からトラブルに巻き込まれます。 1979年に獄中結婚した女性に母が苦労して貯めた現金や銀行預金を奪われます。2000年9月には講演会で知り合った内縁の妻の元夫を殺そうとして現行犯逮捕されます。その時は性格障害として治療看護所に2年間収監されました。
金嬉老事件をモデルとした映画
この事件は、公判の資料や報道フィルム、雑誌の記事からレンタルDVDに至るまで多くの関連資料が存在しています。それが今でも事件が語り継がれる一因にもなっています。 また、当時の心境を語った金の著書「われ生きたり」は1999年に新潮社より出版されています。具体的な作品も見ていきます。
金の戦争
数々の作品の中でもノンフィクション「私戦」(原作/本田靖春)をドラマ化した「金(キム)の戦争・ライフル魔殺人事件」は、1991年4月にフジテレビ系の実録犯罪史シリーズの第一作目として放映されています。 主演をビートたけしが演じて大きな反響を呼び、放送文化基金賞優秀賞・日本民間連盟優秀賞・ギャラクシー賞奨励賞など数々の賞を受賞しています。また韓国でも1992年「金の戦争」主演(ユ・インチョン)が放映されています。
ビートたけしや樹木希林などが出演した
フジテレビ系で放映された「金(キム)の戦争 ライフル魔殺人事件」にはビートたけしの他、樹木希林、森本レオ、岩崎良美、左とん平、村井国男など他にもそうそうたるメンバーが名を連ねています。 その中でも主役を演じたビートたけしの演技は、その役柄が持つ人間の二面性を見事に演じているとの高い評価を得ています。金自身も韓国へ強制出国させられる前に「演じてくれてありがとう」と記した手紙をビートたけしに残しています。
金嬉老が立てこもったふじみや旅館は廃業した
静岡県の山間部にある寸又峡(すまたきょう)温泉にはカップルや家族連れも多く、夢の吊橋や展望台など見どころもたくさんあります。 しかし、事件の舞台となった「ふじみや旅館」は2012年に廃業しています。2010年には資料館も併設しましたが、高齢となった女将は「これ以上続ける事はできないし、事件には良い思い出はない」と語っています。
まとめ
殺人の原因が民族差別だとする金の主張は容易に受け入れられるものではありません。しかし、この事件は今の日本人と韓国人の底流に流れる深く暗い闇をえぐり出す源流にあります。マスコミ各社の容易で行き過ぎた報道手段も同じです。 お互いが過去の歴史を見つめる事で前に踏み出すきっかけになれば嬉しく思います。