1分でわかるひかりごけ事件
- 1944年5月に発覚した、第五清進丸船長による死体損壊事件
- 真冬の知床半島に漂着した船長は、船員の遺体を食べて生き残った
- 同年6月に逮捕された船長には懲役刑が科せられた
ひかりごけ事件の概要
ひかりごけ事件は第二次世界大戦中である、1944年に起こりました。前年の1943年12月に小樽に向けて根室を出港した日本陸軍の徴用船が難破し、船員が真冬の知床半島に漂着したことが始まりです。
戦時中第五清進丸が北海道の知床で座礁
第二次世界大戦中だった1943年12月、日本陸軍の徴用船として根室を出港した第五清進丸は7人の船員を乗せて小樽に向かっていました。 しかし知床岬沖でシケに遭遇して遭難し、やがて座礁してしまいます。船長を含む7人は船を脱出し、知床半島にあるペキンノ浜にたどり着きました。 そして7人が降り立ったのは、雪と氷に閉ざされた土地でした。
厳しい寒さと食糧不足で船長のみが生き残った
12月の知床半島は雪と氷に覆われており、厳しい寒さが続いていました。そこに食糧不足が加わり、7人のうち5人が早々に命を落としています。 当時29歳だった第五清進丸の船長は、他の船員とはぐれてさまよいました。そして幸いなことに、1軒の牡蠣小屋にたどり着きます。 その後、当時18歳だった最年少の船員もこの牡蠣小屋にたどり着きました。
船長のみ無事帰還した
1944年2月に羅臼町にある岬町で暮らしていた漁民宅に、第五清進丸の船長が1人で現れました。そして助けを求めます。 船長は助けを求めた家の老夫婦に「船が難破し、他の船員は全員死亡した」と伝えました。牡蠣小屋に残っていた味噌やフキの漬物などの食糧や、拾った海藻・流れ着いたアザラシを食べて生き延びたと語ったようです。 そして船長は、故郷に戻ることができました。
ひかりごけ事件の裁判で船長に実刑判決
第五清進丸の船長は「奇蹟の神兵」として、世間にもてはやされました。しかし船員の遺体が発見され、風向きが変わります。船長が船員を食べて生き延びていたことが判明したのです。
船員の不可解な遺体が発見された
「奇蹟の神兵」と呼ばれた第五清進丸の船長の供述に対し、羅臼町の山口巡査部長は矛盾を感じていました。 1月の知床半島は凍結してしまうため、海藻を拾うことなどできなかったからです。またアザラシも、12月から1月に姿を現すことはありませんでした。 そのため山口巡査部長は警察署長に、話の矛盾点を報告します。そして1944年2月14日、地元の消防団員3人と共に現地に実況見分に出かけました。そこで船員1人の遺体が血しぶきのついたむしろの下に置かれるという、不可解な状態で発見されます。
船長が遺体を食した疑惑が浮上。捜査が開始された
知床半島の雪が解け漁が始まった1944年5月、第五清進丸の船長たちが避難していた牡蠣小屋の持ち主である片山梅太郎さんは、そこで食糧や水を補給することにしました。 片岡梅太郎さんは山口巡査部長から、第五清進丸の船長が遭難していた話を聞いています。そこで牡蠣小屋の中を調べ、リンゴの木箱に人骨が入っているのを発見しました。 片岡梅太郎さんはすぐに山口巡査部長にその事実を報告し、警察の捜査が始まることになります。
船長は死体損壊罪で実刑判決
再び牡蠣小屋の現地検分を行ったところ、床板や壁板・むしろなどに血しぶきが付いていることがわかりました。さらに捜査範囲を広げたところ、海岸で古いリンゴの木箱を発見します。 木箱には、人骨や人間の皮が入っていました。手足の表皮にはナイフで切り取られた跡があり、むかれた皮の下に肉は残っていませんでした。 そして1944年6月、第五清進丸の船長は殺人と死体損壊の容疑で逮捕されます。船長は食人は認めましたが殺人は否定し、同年8月に裁判は結審します。その判決は心神耗弱が考慮され、懲役1年というものでした。
事件後も様々な憶測が語られた
ひかりごけ事件は第二次世界大戦中だったこともあり、新聞報道されることはありませんでした。そのため第五清進丸の船長による食人事件は、口伝えで広まることとなります。 さらにひかりごけ事件の裁判記録は廃棄処分されており、戦後に発生した火事によって捜査資料も消失してしまいました。 そうした事情によりひかりごけ事件の詳細が世間に知られることはなく、その後に様々な憶測が語られるようになります。
ひかりごけ事件小説化や映画化がなされた
ひかりごけ事件は1954年に、武田泰淳氏によって小説化されました。小説「ひかりごけ」は現地の郷土史や噂に基づいたフィクションでしたが、船長が船員を殺して食べるという描写が、事実であるかのように世間に受け入れられたといいます。 そして「ひかりごけ」は1992年に藤井啓監督が、三國連太郎さんを主演に映画化しました。また、作家の合田一道氏は15年に渡って第五清進丸の船長に対し取材を行っています。そして1994年に「裂けた岬ー『ひかりごけ』事件の真相」を上梓し、その後の船長の人生も語られました。 それほどまでに、この事件はある意味ドラマチックで、多くの人々の心を捉えたと言えます。船長の人物像にも焦点が当てられました。
類似事件:パリ人肉事件
日本人による食人事件として有名なのが、1981年にフランスで起こったパリ人肉事件です。留学生だった佐川一政が外国人女性を射殺し、その肉を食べたという事件でした。遺体を棄てる際に目撃され、事件が発覚したのです。 彼は逮捕され容疑を認めたものの、心神耗弱状態だったことを理由に精神病院に入院となります。結局は不起訴処分となり、日本に帰国しました。 帰国後には作家やコメンテーターとして活動していた時期もあります。事件に関しても積極的に取材を受け、佐川一政と取材者の文通内容が本として出版されたこともありました。事件の映画化の話なども出てくるほど、当時の世間に衝撃を与えました。
類似事件:ウルグアイ空軍機571便遭難事故
ウルグアイ空軍機571便遭難事故は1972年10月13日に、アンデス山脈で発生しました。墜落したウルグアイ空軍の571便機には45人の乗員乗客がいましたが、生き残ったのは16人です。 そして16人が救助されたのは、同年12月22日から23日にかけてのことです。極寒の山中で命をつなげたのは、死亡した乗客の遺体を食べていたからでした。 ウルグアイ空軍機571便遭難事故は2冊の書籍と、2本の映画のモチーフとなっています。