1分でわかる飛騨川バス転落事故
- 1968年8月に2台のバスが土砂崩れに巻き込まれる
- バス2台は飛騨川に転落し乗員・乗客104名が死亡
- 1969年8月には慰霊目的で「天心白菊の塔」を建立
1968年8月18日に岐阜県鴨川郡白川町で日本最悪といわれるバス事故が起こりました。これが「飛騨川バス転落事故」です。現在の日本は雨量が一定数を超えると通行規制がかかります。「飛騨川バス転落事故」は、そのきっかけとなった事件でもあります。 今回は「飛騨川バス転落事故」が起こった経緯と概要について、解説します。
飛騨川バス転落事故の概要

「飛騨川バス転落事故」は、集中豪雨により土砂崩れが起こったことで発生した悲劇です。2台のバスが土石流に飲み込まれて飛騨川に転落し、104名の命が失われました。この事故には岐阜地方気象台が開始して以来の集中豪雨が関わっています。 ここでは「飛騨川バス転落事故」が起こった概要について、詳述します。
1968年に起きたバス事故
「飛騨川バス転落事故」は1968年8月18日に、土砂災害によって起こりました。乗鞍山に向かって走行していた観光バス2台が集中豪雨による土砂崩れに巻き込まれたのです。 その日は株式会社奥様ジャーナル主催・名鉄観光サービス協賛で「海抜3000メートル乗鞍雲上大パーティ」というツアーを敢行していました。名古屋を中心に750名が集まり15台のバスに分乗していましたが、そのうち2台が事故にあったのです。
事件現場は岐阜県加茂郡白川町
「海抜3000メートル乗鞍雲上大パーティ」のスケジュールは当初国道41号を北進して、美濃太田・高山・平湯を経由し、翌朝4時30分に乗鞍スカイライン畳平で御来光を迎える予定になっていました。 しかし23時30分を過ぎた頃には猛烈な豪雨となったため、予定を変更しもと来た道を引き返すことを決断します。 その結果観光バス2台が岐阜県加茂郡白川町を通る国道41号で土砂崩れにに巻き込まれてしまいました。
2台のバスが飛騨川に転落し104名が死亡
「飛騨川バス転落事故」が起こったのは1968年8月8日2時11分頃でした。落石と後方での土砂崩れのため停車を余儀なくされていた、5・6・7号車に土石流が襲い掛かったのです。 土石流は高さ100m・幅30mで、ダンプカー250台分の土砂に匹敵する大規模なものでした。この土砂崩れにより5号車と6号車が飛騨川に転落したのです。 その結果104名の命が失われる事態となりました。
飛騨川バス転落事故発生の経緯

「飛騨川バス転落事故」が起こった原因として、当時の気象予報やツアー責任者の危機管理など様々な問題がありました。またお盆休みの週末にツアーが行われたこともあり、750名以上が参加していたことも犠牲者を増やす要因となりました。 ここでは「飛騨川バス転落事故」が発生した経緯について、詳述します。
株式会社奥様ジャーナル主催のツアー
「飛騨川バス転落事故」で事故の犠牲となった人々は株式会社奥様ジャーナル主催の「海抜3000メートル乗鞍雲上大パーティ」に参加した人々でした。北アルプスの乗鞍岳観光を行うツアーで、ファミリーや団体向けの企画でした。 乗鞍岳での御来光や北アルプスのパノラマを楽しんだり、小京都と呼ばれた飛騨高山が観光できるとあって主宰者の予想をはるかに上回る750名以上の申し込みがありました。 申し込み者全員を参加させるためバスの手配を依頼した岡崎観光自動車だけでは用意できず、同業他社4社から急遽バスを手配しツアーを行いました。
台風の影響で天候が悪かった
「海抜3000メートル乗鞍雲上大パーティ」というツアーが行われた1968年8月17日、日本海を台風7号が50km/hで北上していました。その影響により岐阜地方気象台では同日8時30分に大雨・洪水・ライフ注意報を発表していたのです。 午後になり雨脚が弱まったことから、同日17時15分に岐阜地方気象台は注意報を解除しました。しかし夜になると岐阜中部上空の大気が不安定となり積乱雲が多発します。 これを受けて気象台は同日20時には雷雨注意報を、22時30分には大雨・洪水警報を発表しました。このように「飛騨川バス転落事故」が起こった日は、台風の影響による悪天候だったのです。
立ち往生している最中、土砂崩れに巻き込まれた
1968年8月8日0時過ぎ15台の観光バスは名古屋に向けて元来た道を戻っていました。観光バスは1~7号車の第1グループと、8~16号車の第二グループに分かれて走行していました。 そして同日0時18分に5号車が地元の消防団から台風による悪天候を受け、運転を見合わせるよう勧告されます。しかし1~3号車がすでに飛泉橋を通過していたため後を追わざるを得ない状況となり6・7号車もそれに続きました。 しかし上麻生ダムを1㎞過ぎたあたりで崩落により道路が寸断され、その後に後方でも土砂崩れが起こったため6台のバスは立ち往生してしまいます。それから40分後に大規模な土砂崩れが起こりました。
飛騨川バス転落事故の事故後の対応

「飛騨川バス転落事故」では740立方メートルと推測される土砂崩れが起こり、ガードレールを曲げたうえで2台のバスを飛騨川に押し出しました。この時点で現場には約30台のバス・トラック・乗用車がいましたが、携帯電話のない時代のため、連絡手段がなかったのです。 ここでは「飛騨川バス転落事故」が発生した後の対応について、詳述します。
警察署に通報があったのは事故から約3時間半後
「飛騨川バス転落事故」が発生した後、残された人たちは安全なところを探して車を移動させ難を逃れます。それを確認したバスの運転手4名は事故発生を伝えるために対岸にある下山ダムの事務所を目指しました。 道路に堆積(たいせき)した土砂を乗り越えて事務所にたどり着き、上麻生発電所経由で地元の加茂警察署に事故発生を知らせたのです。 加茂警察署が事故の通報を受けたのは1968年8月18日5時40分頃で、すでに3時間半が経過していました。
水位零作戦
「飛騨川バス転落事故」の通報を受け、地元警察や消防団・陸上自衛隊などが救助活動を開始しました。しかし事故当日は車体を発見することもできず、翌日の1968年8月19日10時30分に転落場所から300m下流で押しつぶされた5号車が見つかったのです。 その後の懸命な捜索にも関わらず6号車の発見には至らず、中部電力は「水位零作戦」の実行を決めます。これは上麻生ダムと名倉ダムの放流を停止して水位を0にすることで、車両を捜索するという方法でした。 この水位零作戦により、何とか6号車は引き上げることができたのです。
遺体の回収
「飛騨川バス転落事故」発生の翌日である1968年8月19日には一部の遺体が知多半島に漂着しました。そのため飛騨川だけでなく広範囲にわたって捜索が行われています。 大半の遺体は堆積(たいせき)した土砂に埋もれた状態だったため、重機ですくい上げては消防車による高圧放水で流して確認するという作業が進められました。 しかし航空機事故並みに遺体の損傷が激しく、腕だけが発見されたケースもありました。そして9名の遺体が見つからないまま、捜索は打ち切られたのです。
飛騨川バス転落事故の生存者は乗員2名と中学生1名

「飛騨川バス転落事故」に巻き込まれた5号車と6号車の乗客の中にも3名の生存者がいました。乗員・乗客が107名乗車していたことを考えると、わずかな人数です。 「飛騨川バス転落事故」の生存者のうち2名は乗員でした。当時30歳だった5号車の運転手と、当時20歳だった5号車の添乗員です。 土石流が5号車を襲った際、窓ガラスが割れていました。 2名の乗員はバスが飛騨川に転落する途中で、割れた窓から車外へと投げ出されたようです。 ツアーの参加者のうち、「飛騨川バス転落事故」で生き延びたのはたった1名です。当時14歳の男子中学生でした。 少年は両親と姉の4人でツアーに参加していましたが運よく車外に投げ出され、立木に引っかかったことで九死に一生を得ました。 この少年は家族を亡くしましたが、祖母や親戚の力添えにより大学進学を果たしたそうです。
バス会社は不起訴

「飛騨川バス転落事故」では天災かツアーの主催者・旅行会社・バス会社の判断ミスによる人災かで争われました。 岐阜県警は事故当日に起こった土砂崩れは不可抗力であると判断し、バス会社に対する業務上過失致死罪は問えないと判断しました。 1968年9月26日に国家公安委員会が岐阜県警の判断を追認したこともあり、岐阜地方検察庁も不起訴としています。
慰霊碑・天心白菊の塔

「飛騨川バス転落事故」の後、「慰霊碑・天心白菊の塔」が建立されました。当時内閣総理大臣を務めていた佐藤榮作氏が、題字を書いたことでも有名です。 ここでは「慰霊碑・天心白菊の塔」について、詳述します。
一周忌に作られた
「慰霊碑・天心白菊の塔」は、「飛騨川バス転落事故」の犠牲者が一周忌を迎えたタイミングで建立されました。それは1969年8月18日のことです。 建立されたのは事故現場から300mほど下流で、国道41号線脇でした。塔の横には石碑も置かれ、天心白菊の塔の由緒が記されています。 この日の慰霊祭では、乗客でただ1人助かった少年が追悼文を朗読しました。
現在では噂や怪談から心霊スポットとしても有名に
「飛騨川バス転落事故」の被害の壮絶さは関係者以外には忘れ去られつつあります。 しかし事故現場は現在別な形で有名な場所となっています。「飛騨川バス転落事故」が起こった白川町付近のバス停に、ずぶ濡れの人たちが経っているという噂が広がったのです。 そのためこの付近は現在心霊スポットとして、有名になっています。
まとめ

楽しいはずのツアーが104名が命を失う大惨事となった、「飛騨川バス転落事故」について説明しました。 この事故により道路の防災点検や雨量に基づく通行規制が行われるようになったのは大きな進歩といえます。しかしこれ以後も、岩盤崩落事故は発生しています。自然災害が多い日本だからこそ、過去の教訓から学び続ける姿勢を持ち続けてほしいものです。