\ 琉球風水志 シウマの占いページはこちら /

花岡事件の真実とは?時代背景から概要を紐解きつつ鹿島建設との裁判の詳細に迫る。

もくじ

1分でわかる花岡事件

  • 花岡鉱山で中国労働者が蜂起し監督を殺害
  • 裁判後は和解し和解金5億円が支払われる
  • 花岡鉱山跡地には産廃処理施設

花岡事件の背景

当時日本では日中戦争の長期化と太平洋戦争開始に伴い、国内での労働力不足が深刻化していました。特に戦争末期に鉱山労働力が不足したために、捕虜としてとらえた中国人を労働者として現地移入しました。 戦時中、花岡鉱山で強制労働をさせられていた中国人労働者が、扱いのひどさに耐えきれず一斉蜂起して、日本人監督者を殺害しました。蜂起した多数の中国人は殺害されてしまいました。 戦後行われた裁判で最終的には和解が成立し、5億円の和解金が支払われることとなりました。しかし和解金の大半は当時の中国人労働者の手にはわたっていません。また閉山した花岡鉱山跡地は現在では産廃処理施設になっています。

戦時中で労働力が不足していた

日中戦争が長期化したために労働力が不足したために、日本政府は本人の意思にかかわらず強制的に労働力を動員しましたが、太平洋戦争開始後は一層の労働力不足に悩まされることとなりました。 深刻化する労働力不足のため学生や女子まで無報酬で動員しましたが、労働力不足が解消されることはなく日本人だけでは限界がありました。 そのため特に労働力の不足していた炭坑や鉱山では捕虜としてとらえた朝鮮人や中国人が多く働かされることとなりました。

中国人を捕虜として多く捕らえていた

戦時中敵として戦った多くの中国人将兵は捕虜として捕らえられ、処刑されるか花岡鉱山などで強制労務させられていました。 中国とは長年戦争が続いていたため多数の将兵が捕虜として日本軍に囚われていました。 しかし日本軍は中国においては捕虜の存在を表立って認めることはなく、中国に捕虜収容所は建てられることもありませんでした。 日本軍に捕らえられた中国将兵の多くが日本に強制連行され、花岡鉱山などで働かされていました。

花岡事件の概要

日本政府の政策により捕らえられた中国人の多くが日本へ強制連行され、花岡鉱山で働かされていました。過酷な労働環境と落盤で多くの中国人が亡くなり、耐えられなくなった中国人労働者は監督官など4名を殺害しました。 その事件がさらなる暴力や拷問につながってしまいます。なぜそのような事態になってしまったのでしょうか?

日本政府の政策により中国人が日本へ連行

戦時中労働力不足が深刻化した際に日本政府の政策によって、捕虜として捕らえられた多くの中国人が日本に強制連行されました。 もともとは産業界から要望が出され、日本政府が「華人労働者内地移入の件」として閣議決定したものです。初めに少数での試験移入が行われた後、3万人もの中国人を労働者として日本に移送する計画が盛り込まれていました。 日本政府の方針によって労働力として日本へ連行された中国人の多くが亡くなっています。

労働環境は過酷で約1000人の中国人が動員され100人以上が死亡

日本に移送された中国人は大手建設会社である鹿島組に預けられ、花岡鉱山で働かさせましたが、その労働環境は過酷を極めました。 中国人労働者は日本人の監督官に監視される中、長時間の労働に加え満足な食事を与えられることもなく、非人道的な扱いを受け続けていました。さらに河川改修工事などといった過酷な労働に従事させられていました。 花岡鉱山に動員された中国人は約1,000人にものぼり、死者はその1割以上である100人を超えるほどの人数でした。 移送途中に亡くなった人もいれば満足な食事がとれなかったために亡くなった人、日本人からの暴力や河川改修工事といった過酷な労働で体力を失い亡くなった人などその死因はさまざまです。 花岡鉱山では中国人労働者が動員されてからわずか1年足らずのうちに、137人という数の中国人が亡くなっています。

中国人達が鹿島建設の監督者など4名を殺害

戦争末期の1945年には中国人労働者は過酷な労働に耐えきれず絶望し、一斉に蜂起して鹿島建設から派遣されていた監督者など4名を殺害し逃亡しました。 花岡坑道の落盤事故が蜂起の大きなきっかけになったとされています。 監督者を殺害した中国人たちは近くの森に籠っていました。警察、消防団、在郷軍人らが出動したために大規模に捜索が行われ、逃亡からわずか1日程度で捕まってしまいました。

憲兵や警察などにより中国人たちは暴行・拷問を受け中国人の多くが死亡

蜂起に失敗し捕まった中国人の多くは憲兵や警察に暴行と拷問を受け100人以上が死亡し、最終的には花岡鉱山の中国人死亡者数は400人を超えました。 暴動は直ちに鎮圧されましたが、その後の扱いはさらにひどくなり、暴力はもとよりひどい拷問で多くの中国人が殺されています。 過酷な労働環境に加え暴動もあったために、ほかの事業所に比べて花岡鉱山で強制労働させられていた中国人の死者数は群を抜いて高いものでした。

中国人の死体を放置した上残りの中国人達に死体を埋めさせた

暴動後捕まって拷問され殺された中国人の遺体は、10日間も放置されていました。そのうえ生き残った中国人に大きな穴を3つも掘らせ、その穴に大量の中国人の死体を埋めました。 暴動後数の減った中国人には同胞の死体を埋めさせたうえに、それまでと同じように過酷な条件で働かえせました。 そのためその後も死者は増え続け、7月から10月にかけて毎月何十人もの死者を出していました。

花岡事件の刑事裁判

終戦後に花岡鉱山に関する裁判が行われ、秋田の裁判所では暴動を起こした中国人労働者の首謀者に有罪判決が下されましたが、その後アメリカ人による横浜軍事裁判で鹿島建設の関係者に実刑判決が下されました。 「花岡事件」ではどのような裁判が行われ、誰にどれだけの実刑判決が下されたのでしょうか。

鹿島建設の関係者が実刑判決を下される

「花岡事件」に関する日本人による秋田の裁判では中国人労働者の首謀者に有罪判決が出されましたが、アメリカ軍による横浜軍事裁判により鹿島建設の関係者に実刑判決が下されています。 具体的には花岡鉱山を担当していた第七分所から11名の日本人が裁判にかけられ、鹿島組の関係者である4名と大館警察署に所属していた警察官の2名が有罪とされました。 有罪とされた6名のうち、鹿島組関係者である3名が絞首刑の判決を受けています。

その後鹿島建設の関係者の多くは減刑された

裁判では絞首刑という厳刑を下された3人の鹿島建設関係者はその後減刑され、終身刑とされました。 「花岡事件」の裁判は終戦後に戦争指導者を裁くためにマッカーサーの命令により設立された極東国際軍事裁判所で行われました。 当初は厳しい刑を科された鹿島建設の責任者たちは、結局絞首刑にされることはありませんでした。

花岡事件の和解

「花岡事件」ではアメリカ軍による裁判だけでなく中国人の訴えによって起こされた裁判もあります。 中国人の訴えを全く認めようとしなかった鹿島建設ですが、最終的に中国紅十字会に和解金として5億円支払うことで決着されました。ここでは和解金が支払われるまでの流れを見ていきましょう。

花岡事件のBC級戦犯での裁判

「花岡事件」ではBC級戦犯での裁判が行われています。BC級戦犯とは連合国の布告した条例によって定められたもので、B項目の通例の戦争犯罪またはC項目の人道に対する罪に該当する者が戦争犯罪者とされ裁判にかけられたものです。 日本人がかけられたBC級戦犯は横浜などの多くの軍事裁判所でGHQにより裁かれ、花岡事件の裁判もこれに該当します。 しかし当時の鹿島建設はBC級戦犯の裁判は間違っているとして、判決を認めようとはしませんでした。

中国紅十字会に鹿島建設が5億円を支払うことで和解

鹿島建設は横浜軍事裁判の判決を認めようとはしませんでしたが、結局和解を成立させて5億円を賠償として支払うことで合意に至りました。 当時花岡鉱山にいた中国人指導者の生存者は、花岡事件40周年の慰霊祭が行われることを知り来日にした時に鹿島建設の主張を知り、鹿島建設と戦う決意を固め鹿島建設を提訴しました。 東京地裁は時効であるとして訴えを棄却しましたが、東京高裁は和解を勧告し2000年にようやく和解が成立しました。

花岡事件の和解金の5億円の大半は闇に消えた

「花岡事件」の和解金として支払われた5億円もの大金は半分ほどしか被害者本人や遺族にわたることはなく、その大半は闇に消えたといわれています。 金額が予定されていた額の半分程度であるだけでなく、受け取った人数も被害者の半数である500人程度でした。 和解金を受け取った中国紅十字会の基金は残高や用途が明確にされておらず、中国国内では中国紅十字会が手数料として差し引いたのではないかともいわれています。

花岡事件から学ぶべきこと

「花岡事件」を通して戦争の恐ろしさだけではなく戦時中の人間心理の残酷さもまた学ぶことができます。戦時中捕虜になった敵にはどのように扱っても許されるという心理が花岡事件を起こしたのです。 中国人労働者に対する1日16時間にも及ぶ労働やわずかな食事、暴行に虐待といった日常では決して行われないような出来事が平然と行われていました。 二度とこのような悲劇を繰り返さないためにも、この事件を通して戦争の恐ろしさとともに労働環境の見直しなども学ぶ必要があります。

花岡鉱山の跡地

かつて日本有数の鉱床を誇った花岡鉱山は現在閉山されています。その跡地はどのように活用されているのでしょうか。 閉山された鉱山跡地には産廃処理施設などが建設され、有効に活用されている部分もあります。

閉山した現在は廃棄物処理施設などが存在

秋田県に位置する花岡鉱山が閉山された後には研究所やリサイクル工場、産業廃棄物処理場などが建設され稼働していました。 もともと支山も多く採掘量も日本屈指といわれた花岡鉱山でしたが、1994年になると採掘しても採算がとれなくなったため閉山されてしまいました。 閉山後は鉱山跡地活用方法の一環として使用済みの家電や廃棄物処理、土壌浄化処理などの各リサイクルをする工場がいくつも建てられました。

放射線により汚染された焼却灰が処分されていた

花岡鉱山跡地には放射能に汚染された焼却灰などが埋め立てられ処分されていたことが福島第一原発の事故によって明らかになりました。 福島第一原発の事故が起こったために埋め立てられていた鉱山跡地の焼却灰が飛散し、それによって埋め立てられていた焼却灰に放射性セシウムなどが含まれていることが判明したのです。 事故から3年たっても、この焼却灰の埋め立て処分場の放流水と排水汚泥からは放射性セシウムが検出され続けています。

まとめ

「花岡事件」は戦争の怖さだけでなく労働環境の大切さもまた教えてくれる事件でした。たくさんの中国人が無意味に殺され、埋め立てらてしまった悲惨な事件でしたが二度とこのような悲劇をおこさないためにもきちんと事実を学ぶことが重要です。 記憶を風化させて忘れてしまうのではなく、後世にしっかりと語り継いでいくことこそが大切です。

【関連記事】昭和の事件についてはこちら!

よかったらシェアしてね!

この記事を書いた人

もくじ
閉じる