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渡鹿野島は風俗業でかつて栄えた闇深い売春島。渡鹿野島の衰退とその要因は?

もくじ

1分でわかる渡鹿野島

  • 渡鹿野島は三重県にある、売春島とも呼ばれた小島
  • 江戸時代から続く売春産業で栄えていた
  • 近年の規制強化で売春産業はなくなり、廃墟と化した

伊勢湾に浮かぶ渡鹿野島とは

渡鹿野島は伊勢湾にほど近い、的矢湾に浮かぶ小島です。所在地は三重県志摩市で、古くは海上運送の補給地、待避所にもなっていました。しかし1970年代頃までには、風俗産業が盛んな売春島として有名になっていました。

かつて船の停泊地として栄えた

渡鹿野島は江戸時代、「風待ち港」と呼ばれて栄えていました。当時の船舶の運航は風や波に大きく左右されたので、文字通りに風を待つ待避所として親しまれていたのです。 江戸~大阪間を結ぶ海上航路の途中にあったことから、港には数多くの船が立ち寄りました。こうした船の乗員を目当てとして、飲食業や宿泊施設も出されるようになり、かなり賑わっていたようです。 また船乗りを相手にして、島民の女性が駄賃と引き換えに夜とぎすることもありました。今で言う売春です。やがて島民の中から売春目的に、島外から養女を身請けする者達が出始め、渡鹿野島で置屋(売春宿)文化が発展していきました。

風俗業、観光業をメインとし急成長

港町として栄えた渡鹿野島と性風俗は、切っても切れない関係にありました。しかし渡鹿野が売春島として急速に発展したのは、第2次大戦終戦後になってからのことです。 1960年代後半、四国や九州などから移住してきた女性達が、スナックバー形式の置屋を始めました。これが後に売春島となる風俗業態の直接のルーツとなります。 島のホテルでは宴会と呼ばれるサービスが主流だったようです。島外の観光客がコンパニオンのように派遣さた女性と酒の席を共にして、女性の住居に迎えられる流れでした。表向きには観光客として扱うものの、実質的には円滑に買春を行うシステムだったのです。

バブル絶頂期には風俗店やパチンコ店や飲食店で賑わう

1980年代の日本はバブル景気の絶頂期で、渡鹿野島も例外ではありませんでした。 約1.36平方kmほどの島に置屋やストリップ劇場などの風俗店だけでなく、喫茶店や居酒屋などの各種飲食店、パチンコ店といった遊戯施設がひしめきあい、大変な盛り上がりを見せたそうです。 未確認の噂ですが、2006年頃には裏カジノもあったと言われています。日本で近い将来、カジノを含むIR(統合型リゾート)を推進する計画が推し進められていますが、かつての渡鹿野島はまさにIRのような島だったのです。

借金を負った女性などが出稼ぎに

性風俗は渡鹿野島の重要産業でしたが、そこには当然闇が付きまとっていました。島で性風俗に従事していた女性の中には、自分で望んでいないのに強制されていた者が、少なからず存在しました。 1977年に実施された警察による島内捜査によると、売春婦の多くは家出をした少女ばかりで、借金返済のために出稼ぎに来ていたことがわかりました。 また悪意あるブローカーが街中で女性に声をかけて騙し、人身売買に近い手法で島に送り込むケースもあったようです。渡鹿野島の実態を描いたノンフィクション『売春島 「最後の桃源郷」渡鹿野島ルポ』でも取り上げられていますが、身売りされた17歳少女が泳いで島から逃げたというエピソードがあります。

反社会勢力の資金源になっていた可能性も

真相はさだかではありませんが、渡鹿野島の売春産業が反社会勢力の資金源になっていた可能性があります。 最盛期を知る渡鹿野島関係者の証言によると、当時狭い島で毎夜のように人がごった返していたそうです。宿はどこも満員で、民家まで使用されていたと言われています。人も金も唸るほ集まることから、嘘かまことか「ドラム缶から札束が溢れている」との噂も出たほどです。 渡鹿野島が人口200人程度の小さな離島であることを考えると、この最盛期の利益は桁違いに多かったことでしょう。これを反社会勢力が見過ごすとは考えられません。おそらくなんらかの形で島の運営に関わっていたものの、報復を恐れて誰も証言していないのではないでしょうか。

 

渡鹿野島の旅館「つたや」の存在

渡鹿野島には現在も、港の玄関口に旅館「つたや」の建物が残されています。ここはかつて、島の売春産業の中心「シーサイドホテルつたや」として営業されていました。このホテルで斡旋が行われていたのです。 1970年代、島の売春を摘発するため、三重県警の警部補が極秘に潜入しました。しかしその警部補は置屋の女将と親密となり、密かに売春を後押し始めたのです。この女将が「シーサイドホテルつたや」を開業しました。 しかし2000年代に入って、女将は非合法の経営コンサルタントに付け込まれ、財産のほとんどを失ったそうです。以後「つたや」は廃業し、建物だけが残されました。

渡鹿野島の衰退と原因

一時期の栄華を誇った渡鹿野島は現在、過疎と高齢化で衰退の一途を辿っています。近年の売春産業規制、島のクリーン化が原因のようです。島中にあるホテルや旅館、飲食店はほぼすべてが廃業してしまっています。

旅館の多くは廃業し人口の減少、高齢化が著しい

渡鹿野島は現在、深刻な過疎化と高齢化が進行しています。 島の住民は、ほとんどが宿泊業や飲食業を営んでしました。しかし近年は売春規制にともなって利用客が激減したことで、多くのホテルや旅館はすでに廃業しています。 この産業衰退によって、急速に島の過疎化が進みました。志摩市の資料によれば1995年から2005年までの10年間で、人口減少率が30%にもなっています。同時に島の全人口における65歳以上の割合は約40%で、なんと約半数が高齢者です。

島のクリーン化や規制の強化

売春産業衰退の理由はいくつかありますが、主な原因はクリーン化と規制強化です。 2013年9月、わたかの島観光協議会は志摩市などと協調し、島のイメージを払拭してクリーンな観光地とする計画を発表しました。島の観光地化とクリーン運動は突然始まったわけではなく、1990年頃から地元旅館組合などが進めていた事業です。 また前後する時期から取り締まりも強化されており、警察の立ち入り調査で売春関係者が次々に逮捕されていきました。

伊勢志摩サミットの開催

渡鹿野島への規制は今に始まったことではなく、1956年の売春防止法の制定までさかのぼります。売春関係者はそれでも業態を変え、旅館を隠れ蓑にして売春産業を続けてきました。 しかし2016年に開催された伊勢志摩サミットが転機となります。G7各国首脳が一堂に集うとあって、行政の締め付けがこれまで以上に厳しくなりました。 その結果、クリーン化や規制強化でも残っていた店が次々と廃業し、島から売春産業が一掃されたのです。

風俗で栄えた幻の売春島の渡鹿野島

渡鹿野島は現在、「ハートアイランド」の通称でリゾートビーチ化しています。この名称は地図で見た島が、ハート型をしていることが由来です。ところが地元観光協会の努力も虚しく、少数の海水浴や志摩スペイン村の宿泊地として利用する人はいるものの、渡鹿野島を目当てで訪れる観光客はほとんどいません。 それは渡鹿野島ならではの見所がないためです。伊勢志摩には観光地がいくつもあり、温泉街や美味しい名産品は三重県内にいくらでもあります。 皮肉なことに、渡鹿野島に不要と取り除かれた売春こそ、島の唯一無二の特徴的産業だったのです。風俗で栄えた渡鹿野島は、今や滅びの時を待つ廃墟の島と化しています。

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