1分でわかる福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件
- 福岡大学ワンダーフォーゲル同好会が登山中にヒグマと遭遇
- 福岡大学ワンダーフォーゲル同好会の5名中3名が犠牲に
- 人を襲ったヒグマはハンターによって射殺された
福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件の概要
今から約50年前である1970年7月、北海道にある日高山脈の山で起きた害獣事件で、被害に遭ったのは福岡大学ワンダーフォーゲル同好会の会員5名です。彼らが登山中に遭遇したヒグマへの対処を誤ったことから、最終的に死者3名が出る悲惨な事態に発展しました。
1970年にヒグマが人を襲った事件
現場になったのは北海道中央南部に位置する日高山脈の1つ、カムイエクウチカウシ山です。この事件は1970年7月の26日から28日にかけて起こり、29日に終息しました。 登山コースの周辺に出没したヒグマが、5人の学生を執念深く追い回したことで深刻な事態に発展しました。 登山道は山林などと比べて見通しが良いため、ヒグマと遭遇することは極めて珍しいことです。死亡事件となるとさらに例が少なく、事件のニュースは世間を騒がせました。
被害者は福岡大学ワンダーフォーゲル部の学生
被害に遭ったのは福岡大学ワンダーフォーゲル同好会です。事件の名称や当時の新聞報道で「ワンダーフォーゲル部」とされていますが、実際には同好会でした。(後に昇格しています。) ワンダーフォーゲルはドイツ語で「渡り鳥」を意味し、登山を通して心身の健全な鍛錬を行う野外活動のことです。 当時、事件の発生した日高山脈登山に参加したメンバーは18歳〜20歳の5名でした。
3名の死者を出した
当時の日本ではヒグマの生態、被害についてはほとんど周知されていませんでした。福岡大学ワンダーフォーゲル同好会の5名も例外ではなく、対処を誤ったせいで死傷者を出してしまいました。 結果3名がヒグマに殺害されました。この他、付近に北海学園大学や鳥取大学、中央鉄道学園のグループも滞在していましたが、難を逃れています。 このうち北海道学園大学グループは事件の2日前にヒグマと遭遇し、下山する最中でした。特徴が一致するので同一のヒグマだったと考えられています。
福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件の経緯
福岡大学ワンダーフォーゲル同好会の5名は1970年7月12日に福岡を出発し、14日午後に芽室岳から日高山脈の南下を始めました。 彼らは25日にヒグマと接触します。一旦は追い払うことに成功したものの、それがかえってヒグマに執着される原因となり、26日から27日の2日間で3名の犠牲者が出ました。
7月14日入山
同好会5名は1970年7月12日に福岡の博多駅から出発し、14日午後に北海道の新得町に到着しました。地元の派出所に登山計画書などを提出した後、午後には日高山脈の北にある芽室岳へ入りました。 芽室岳からは南下してペテガリ岳を目指す予定で、日高山脈のおよそ半分を制覇するという意欲的な計画でした。 福岡大学ワンダーフォーゲル部は日頃から険しい日高山脈に憧れていて、実際に挑戦するのが夢だったようです。
25日にヒグマに接触した
25日の午後3時半ごろ、同好会5名はカムイエクウチカウシ山の九ノ沢カールにテントを設営しました。 その約1時間後、テント付近にヒグマが現れます。5名は物珍しさからヒグマを観察していましたが、外に放置していた荷物が漁られたため、火や騒音で追い払いました。 1度目の接触では被害もなく、時間にして30分ほどの出来事でした。しかしヒグマは同日夜半に再来し、今度はテントに穴を開けるなど実害を与えていきました。
26日から27日にかけてヒグマに襲われる
26日午前4時半、三度目に現れたヒグマにテントが襲われ、同好会5名は荷物とテントを放棄して脱出しました。この時点でリーダーは部員2人に救援を呼ぶよう指示します。 下山の途中で北海道学園大学のグループと出会った2人は、北海道学園大学に救援要請を託し、仲間の元に引き返しました。 その後、同好会は隙を突いて荷物を取り返すものの、夕方過ぎからヒグマに執拗に追い回されます。5名は散り散りとなり、襲撃を受けたまま27日を迎えました。
5名のうち生存者は2名
26日午後6時半ごろ、同好会5名は鳥取大学のテントに匿ってもらおうと移動していましたが、突然後ろに出現したヒグマに1人が殺されました。 逃げるうちにもう1人が単独ではぐれてしまい、すでに避難していて無人の鳥取大学テントに逃げ込みました。彼は27日午前8時までにヒグマに殺害されたようです。 他の3人は岩場に身を隠して一夜を明かし、午前8時15分ごろ下山しようとしてヒグマと鉢合わせしました。ヒグマは逃げ出した1人を追いかけて行き、咄嗟に伏せた2人だけ生きのびることができました。
襲ったヒグマは射殺された
同好会を襲ったヒグマは、29日に八ノ沢カールでハンターに発見されました。ハンターは10人がかりで一斉射撃を行って射殺しました。ヒグマは2~3歳ほどの若いメスでした。 ヒグマの胃の内容物に人体がなかったことから、食料として襲ったのではなく、同好会を外敵と見なして排除しようとしたのではないかと言われています。 ヒグマの肉はしきたりに従ってハンターたちが食べたそうです。このヒグマは後に剥製にされ、今も日高山脈山岳センターに保管されています。
遺体の状況
7月28日に開始された救助隊による捜索活動で、ヒグマに殺害された3名の遺体が発見されました。 3名ともなぜか衣服を剥ぎ取られ、身につけているのはベルトのみという惨状でした。死因はいずれも頚椎の骨折と頚動脈折損による失血死でした。逃走中に背後からヒグマに襲われて、倒れたところを顔や股間を噛み千切られたとされています。
29日と30日に遺体が発見された
27日に無事下山した2人は五ノ沢砂防ダムの工事現場で事情を話し、自動車を借りて中札内駐在所へ駆け込みました。しかし時刻が午後6時を回っていたため、救出は翌日に持ち越されます。 救助隊は28日に100人体制で編制され、同好会3名の捜索が行われました。捜索から2日目の29日に八ノ沢カールの北側で2名の遺体が見つかり、続く30日にはもう1名の遺体も発見されました。
遺体は八の沢カールで火葬された
3名の遺体は7月30日までに発見されました。生きのびた2名によって本人確認も済んだのですが、当時は悪天候で足場が荒れていたことから、遺体を山から下ろすことが困難でした。 そのため救助隊はやむを得ず、31日午後5時ごろに3名の遺体は八ノ沢カール現地での火葬を決定しました。 八ノ沢カールの事件現場には、追悼の句「高山に眠れる御霊安かれと挽歌も悲し八の沢」と被害者の名前の刻まれたプレートが今でもかけられています。
残されたメモ
26日に1人だけはぐれた部員の遺体のそばには手帳が残されており、そこには彼がヒグマに襲われた記録がメモとして残されていました。メモには襲撃前や襲撃後に起こった混乱や恐怖が生々しく綴られています。 メモによると同好会メンバーとはぐれた彼は、ヒグマと1対1の状況から命からがら逃げ出し、鳥取大学のグループが放棄したテントで一夜を過ごしたようです。 メモの最後の記述は、27日午前7時に濃霧が発生していること、テントから5メートル上方にヒグマがいるということでした。状況的にこの直後に襲われたと思われます。
福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件のその後
事件が大きく報道されたことを機に、それまで一般的に認知されていなかったヒグマの習性が広く知られるようになりました。 ヒグマはとても執着心の強い動物で、所有物と認識したものが奪われることを嫌います。また背中を向けて逃げる相手を追いかける性質があるので、慌てて逃げればどこまでも追ってきます。 福岡大学ワンダーフォーゲル部はどちらの対処も誤った結果、悲惨な事件に繋がりました。
福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件の教訓
ヒグマによって3名の死者が出たことから、歴史に残る凄惨な害獣事件となりました。 しかし、事件でヒグマの習性が知られたことから、日高山脈では人が死ぬような重大な害獣事件は起きていません。この事件を教訓として、より一層人と自然が共存していくことこそ、犠牲者3名の願いなのではないでしょうか。