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深川通り魔殺人事件は薬物使用者の川俣軍司による無差別殺人事件。立てこもりや被害者の詳細とは?

もくじ

1分でわかる深川通り魔殺人事件

  • 薬物使用者の川俣軍司が無差別殺人を行い立てこもり
  • 「子供を持つ家族が羨ましかった」という犯行動機
  • 無期懲役判決となり現在も服役中

通り魔とは、不意に不特定多数の通りすがりの人に危害を加える犯罪者を指し、殺人事件に発展したものが少なくありません。昭和の時代には4つの通り魔殺人事件が起こっていますが、中でも特に注目を集めたのが「深川通り魔殺人事件」です。 深川通り魔殺人事件が注目を集めた背景には、日中の商店街の路上で起きた無差別殺人事件であることも関係しています。今回は、深川通り魔殺人事件について紹介します。

深川通り魔殺人事件の概要

深川通り魔殺人事件は1981年の6月半ば、買い物客で賑わう商店街で昼前に発生しました。そして児童や主婦に危害を加え、人質をとって無関係の中華料理店に立てこもったのです。 ここでは事件の概要について、詳しく説明します。

覚せい剤を使用していた川俣軍司による犯行

深川通り魔殺人事件を起こしたのは、茨城県鹿島郡出身の川俣軍司です。トラック運転手や寿司職人として働いた経験のある、当時29歳の若者でした。 その日川俣軍司は前日に受けた面接の結果を聞くために、新大橋通にあった電話ボックスから電話をかけました。そして受けた会社から、不採用であると告げられたのです。 川俣軍司はその時、覚せい剤を使用していました。そして失意のまま商店街に足を運び、凶行に及んだのです。

女性や子供を刺した

川俣軍司は、刃渡り22cmの包丁を持参していました。それを突然、商店街の中で取り出します。そして商店街を行き来していた人たちに、その刃を向けたのです。 川俣軍司はまず、交差点付近にいた親子連れに襲い掛かりました。最初に襲われたのはベビーカーに乗っていた1歳の幼児で、走りながら二度腹部を刺しました。それを見て悲鳴を上げ逃げ出そうとした母親の背中にも二度、包丁を突き立てたそうです。

人質をとって中華料理店に立て籠もった

さらに3歳の女児と偶然その場に居合わせた女性3名に対し、次々と襲い掛かります。最初の凶行からわずか5分の出来事でした。 そして川俣軍司は11時40分頃に、中華料理店「萬来」の前にたどり着きます。偶然その前を通りかかった当時33歳の女性を包丁で脅し、そのまま店内に引き込みました。 幸い店内に食事客はおらず、店の経営者夫婦と子どもを店外に出し立て籠もったのです。

深川通り魔殺人事件の犯人・川俣軍司

深川通り魔殺人事件の犯人である川俣軍司と聞くと、白いブリーフにハイソックスという姿を連想する人も多いことでしょう。これは警察の説得に応じて店から出てくる様子が、テレビ中継されていたからです。 ここでは深川通り魔殺人事件の犯人である川俣軍司がどんな人物だったのかについて、色々な視点から解説します。

深川通り魔殺人事件の前に複数の逮捕歴があった

川俣軍司は深川通り魔殺人事件を起こす前に、7回もの逮捕歴がありました。初犯まだ未成年の頃で、通行人を脅して現金を奪った「恐喝罪」での逮捕でした。執行猶予判決により釈放された川俣軍司は、翌年に暴行傷害事件を起こしましたが罰金刑で済みました。 しかし同年の1972年の秋に再び暴行傷害事件を起こし、懲役10年の実刑判決が下ります。そのため恐喝罪での執行猶予が取り消しとなり、川越少年刑務所に2年10カ月収監されました。 満期で1975年に出所した後もトラック運転手時代に道路交通法違反で罰金刑となり、それがきっかけで暴行傷害事件を起こしています。川俣軍司はもともと、暴力的な気性を持っていたことがうかがえます。

川俣軍司の犯行動機「子供を持つ家族が羨ましかった」

深川通り魔殺人事件の裁判の過程で、川俣軍司の犯行動機が明らかとなります。犯行の直前に不採用通知を受け取ったことが、事件の引き金でした。 しかし何故、女性と子供ばかりを狙ったのか疑問が残ります。その理由は「子供を持つ家族が羨ましかった」という、誠に理不尽なものでした。さらに川俣軍司は「うっぷんを晴らしてやりたかった」と、発言しています。

川俣軍司はかつて寿司職人だった

茨城県鹿島郡波崎町太田で生まれた川俣軍司は、両親と兄・姉の5人で暮らしていました。東京生まれの父親は終戦後にこの土地に移住し、シジミ漁師として生計を立てていました。 しかし暮らしは楽ではなく、川俣軍司は父親の大変さを思い高校進学を断念します。中学卒業後は集団就職で東京に出て、築地の寿司屋に住み込みとして就職しました。ここで寿司職人としての修業を始めたのです。

川俣軍司は職を転々としていた

寿司店に就職してから3年間は、川俣軍司は一度も休むことなく真面目に働き続けました。 しかし少年院仮退院中だった後輩が、自分の勤務先である寿司店に入店したことで運命が変わります。その後輩からいじめを受け、店内で折り合うことができず就業4年を待たずして店を辞めてしまいます。 その後も寿司職人として働くべく、江戸川区小岩寿司店で働き始めました。しかしその店の先輩にそそのかされ入れ墨を入れたことで、わずか3カ月で解雇されてしまいます。 何度か寿司店に勤めたもののクビになることも多く、トラック運転手など職を転々とするようになりました。

川俣軍司は覚せい剤中毒だった

やがて川俣軍司は東京で働くことを諦め、実家に戻りました。一度は運送会社に就職したものの長続きせず、父親のシジミ漁を手伝い始めます。 この時代、暴力団あるいは在日朝鮮人の資金源として覚せい剤が爆発的に広まっていました。 実家に戻った川俣軍司は銚子にある歓楽街に出かける機会が増え、暴力団関係者とのかかわりができます。そこで覚せい剤に手を染めるようになり、中毒になるまでそう時間はかかりませんでした。

川俣軍司は現在も服役中

深川通り魔殺人事件の判決は、1982年12月23日に東京地裁においてくだされました。検察は死刑を求刑しましたが、無期懲役判決となっています。 犯行当時、川俣軍司が覚せい剤を使用していたために心神耗弱状態であったと見なされたために死刑を免がれました。 川俣軍司は控訴を検討しましたが、弁護士に諭されて諦めました。そして約1年後に無期懲役が確定しまし、現在に渡って川俣軍司は服役中です。

深川通り魔殺人事件はドラマ化された

深川通り魔殺人事件は、1983年にドラマ化されています。テレビ朝日系列で放映していた、「月曜ワイド劇場」において放送されました。 「深川通り魔殺人事件」というドラマの主役を務めたのは、俳優の大地康雄さんです。そのリアルな演技と刑確定からわずか半年での放映だったこともあり、世間の注目を集めました。 テレビ局に「本人を出演させたのか」という問い合わせがあるほどのリアリティが評価され、放送批評懇談会月間ギャラクシー月間賞を受賞しました。

まとめ

昭和の通り魔事件の中でも今なお語り継がれている「深川通り魔殺人事件」について、解説してきました。 犯人が覚せい剤と使用していたとはいえ、乳児と児童を含む4名が死亡し2名がケガを負ったことを考えると刑が軽いようにも感じます。 現代でも通り魔がなくなってはいませんが、深川通り魔殺人事件のような残忍な犯行が再び繰り返されないことを願いたいです。

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