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布川事件は冤罪事件だった。判決や問題点、再審まで経緯についても迫る。

もくじ

1分でわかる布川事件

  • 1967年8月に茨城県で起こった強盗殺人事件
  • 別件で逮捕された男性2名を布川事件の犯人として逮捕
  • 1978年7月に刑が確定するが2009年に再審で逆転無罪となる

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布川事件の概要

「布川事件」は被害者の遺体が発見されてから再審により逆転無罪が言い渡されるまで、44年もの時間がかかっています。別件逮捕されていた当時20歳と21歳の男性2名が、「布川事件」によって運命を捻じ曲げられました。

1967年に茨城県で起きた強盗殺人事件

「布川事件」が発生したのは、1967年8月30日の朝でした。仕事の依頼をするために、一人暮らしをしていた当時62歳の男性宅を訪れた近所の人が遺体を発見したことが始まりです。 男性は身体を縛られた状態で絞殺されており、茨城県警は捜査を開始します。玄関や窓は施錠されていたものの勝手口が開いており、室内に物色された跡が残っていたため強盗殺人事件と判断されました。 何が盗まれたかが明らかにならないまま、死亡推定時刻に不審な2名の男たちがいたという目撃証言に引きずられる形で捜査が進みました。

再審無罪判決までに44年かかった冤罪事件

1967年10月に、当時20歳と21歳という若い男性2名が逮捕されます。1人は友人のズボンを盗んだ、1人は暴力行為を行ったことが逮捕理由でした。 しかし逮捕された2名に対し茨城県警は、「布川事件」についての取り調べを始めます。そして警察に強要された自白によって起訴され、無期懲役の刑が下されました。 そして再審で冤罪であることが認められ無罪判決が出るまでに、44年もの年月を要しています。

布川事件の経緯

一度は刑が確定した「布川事件」において、再審開始が決定されるまでの道のりは決して短いものではありませんでした。刑務所に収監されてからも無罪を訴え続けた2名の男性だけでなく、民間の支援団体の強い意志が再審無罪完結に結びつきました。

当時62歳だった男性が他殺体で発見

布川事件の始まりは当時62歳の男性が、自宅で遺体となって発見されたことでした。男性の両足はタオルとワイシャツによって縛られており、下着が首に巻き付いていたほか口の中にも詰め込まれていました。 一目で他殺とわかる状況だったため、埼玉県警は早々に捜査を始めます。被害者男性は個人的に金貸しを営んでおり、愛用していた白い財布が見つからなかったことから強盗殺人事件としたようです。 鑑識による検証により、被害現場からは43点の指紋が採取されていました。

男性の自宅付近で目撃情報のあった不審な青年2人を別件逮捕

被害者男性は1967年8月28日の19時から23時の間に、絞殺されたと推定されました。その情報に基づき、茨城県警は近所への聞き込みを開始します。そしてほどなく、同日20時過ぎに不審な男性2名が、被害者男性宅にいたという目撃証言を得ます。 そして同年10月、不審者の目撃情報に合致する青年2名を埼玉県警が逮捕します。10日の深夜に当時20歳の青年が、友人からズボンを盗んだ容疑で逮捕されました。そして16日には当時21歳の男性が、同年8月に起こした暴力行為により逮捕されます。 しかし茨城県警の目的は、別なところにありました。

被疑者・桜井昌司が自白し、逮捕

1967年10月10日に逮捕されたのが、桜井昌司被疑者です。逮捕された桜井昌司被疑者はすぐに窃盗容疑を認めましたが、起訴されることなくそのまま取手警察署に勾留されました。 そして連日、布川事件についての取り調べを受け続けることになります。後に判明することですが、取手署での取り調べは窃盗事件も含めると30日に及んだといいます。 同月15日に桜井昌司被疑者は、「友人と一緒に被害者男性を殺して金を盗んだ」と供述します。そして茨城県警の目は、2人目の被疑者に向けられました。

被疑者・杉山卓男も自白

桜井昌司被疑者の供述を受け、1967年10月16日に茨城県警は名前のあがった友人を別件逮捕しました。それが杉山卓男被疑者です。 杉山卓男被疑者は当時、暴力団の抗争に参加するなどケンカや恐喝といった暴力行為をくり返していました。そのため暴力行為については、早々に認めています。 しかしそれで取り調べが終わることはなく、布川事件への関与について自白を強要されました。そして翌日の17日には、強盗殺人を自白することとなります。

有罪が確定し、収監される

1967年12月20日に起訴された桜井昌司被告と杉山卓男被告は、第一審公判の場で「自白は警察に強要されたもの」として罪状否認に転じます。しかし1970年10月6日に水戸地裁は両被告に対し、無期懲役を言い渡しました。 両被告は控訴しますが、1973年12月20日に東京高裁で行われた第二審で棄却されます。すぐに上告したものの、1978年7月3日に開かれた最高裁でも棄却されてしまいました。 この上告棄却により無期懲役が確定した桜井昌司被告と杉山卓男被告は、千葉刑務所に収監されました。

仮釈放後、無実を訴えて再審請求をし、再審がされる

「布川事件」の犯人として収監された桜井昌司受刑者と杉山卓男受刑者は、1996年11月に仮釈放されました。仮釈放されても無罪を訴え続けた2名に支援者が現れ、「布川事件を守る会」が結成されます。 2名は千葉刑務所に収監されていた1983年12月23日に再審請求を棄却されていましたが、「布川事件を守る会」は2001年12月6日に第二次再審請求を行います。申し立てを受けた水戸地裁内浦支部は2005年9月21日に再審開始を決定しますが、検察側が即時抗告しました。 しかし東京高裁でも2008年7月14日に再審開始決定が支持され、投稿貢献は最高裁に特別抗告します。2009年12月15日に開かれた最高裁で検察側の特別抗告が棄却され、ようやく再審が始められました。

布川事件の無罪判決が確定する

2010年7月9日から始まった再審公判において争点となったのは、物的証拠の少なさと起訴の根拠が自白調書と目撃証言だけだったことでした。 また検察側が当時の取り調べで録音していたカセットテープを証拠として開示しましたが、13カ所も編集した跡が見られました。さらに再審公判で初めて殺害現場で8本もの毛髪が採取されていたことが明らかとなり、それが桜井昌司被告や杉山卓男被告のものではないことが判明しています。 これにより2011年5月24日、2名に対して逆転無罪判決が下されました。戦後に起こった冤罪事件の中で、最も長い時間をかけて再審無罪を勝ち取ったことになります。

布川事件の問題点

「布川事件」は犯人とされた2名が仮釈放後も無罪を訴え続けたことで、冤罪であると証明されました。しかし真実が明らかになるまでに流れた、44年を取り戻すことはできません。

犯行を実証する物的証拠が少なさ

「布川事件」の裁判を行うにあたり、桜井昌司被告と杉山卓男被告の犯行を実証する物的証拠が少ないことは明らかでした。そのため検察側は2名の自白調書と不審者の目撃証言を拠り所に、裁判を進めています。 また再審公判開始後に明らかになることですが、検察側は裁判の不利になる証拠を隠して裁判に臨んでいました。そして第一審・第二審共に「他に犯人がいると思わせるものはない」として、自白調書を根拠に無期懲役を求刑します。 最高裁で無期懲役が確定してから隠された証拠が開示されるまで、実に31年を要することになりました。

不自然な自白や、矛盾点に対する説明不足

「布川事件」の公判中、桜井昌司被告と杉山卓男被告の弁護士は「自白は警察の誘導によるもの」と主張していました。その根拠としてあげられたのが、不自然な自白や事実と供述の矛盾に対する説明不足です。 「強盗殺人としながらも何が盗まれたのかが不明確」「犯行現場から43点の指紋が出たにも関わらず両被告のものはない」「自白では両手で絞殺したとあるが実際にはひもで首を絞められていた」などです。 そのため再審公判でも「客観的状況と矛盾する」「供述は捜査官が誘導したと疑われる」といった、指摘を受けています。

事件当時の取り調べテープに中断・編集した跡が13か所も見られた

再審公判開始に伴い、検察側が開示した証拠の中にカセットテープがありました。これは、「布川事件」における関係者の取り調べの様子を録音したものでした。 そのカセットテープを検証したところ、編集した跡が13カ所あると見受けられました。さらに証言した女性が、「被疑者2名以外の人物を目撃した」と発言していたことも明るみに出ます。 取り調べを行った警察並びに起訴した検察側が、意図的に証拠を改ざんしたと考えられます。

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布川事件のその後

再審逆転無罪が確定した桜井昌司さんは、2011年8月29日に国と茨城県に対し裁判を起こします。それは29年もの長きにわたり、受刑者として収監されていたことに対する国家賠償請求訴訟でした。

2人は刑事補償法に基づき、補償を請求

2011年8月29日、桜井昌司さんと杉山卓男さんは水戸地方裁判所に刑事補償法に基づく補償を請求します。して補償金1億3000万円と、第一審から上告審までにかかった裁判費用として1500万円を受け取りました。 さらに桜井昌司さんは冤罪に対する責任追及を目的に、国と茨城県に対し1億9000万円を求める国家賠償請求訴訟を起こします。もう1人の当事者である杉山卓男さんは妻子との生活を優先し、訴訟は起こしませんでした。 そして2019年5月27日に東京地裁は国と県に対し、7600万円の支払いを命じました。

冤罪防止のため、取り調べの可視化を訴える活動が行われる

「布川事件」に限らず、昭和に起こった冤罪事件の大半が捜査官による自白の誘導が原因で発生しています。また警察や検察が意図的に証拠を隠すことで、冤罪が生まれることも明確となりました。 こうした事態を受けて2005年に刑事訴訟法改正が行われ、検察の証拠開示が制度化されました。また冤罪被害者となった桜井昌司さんは現在も、取り調べの可視化を訴える活動を続けています。 冤罪防止のための警察・検察によると取り調べの可視化を訴える市民の声は大きくなっていますが、法務省を中心とする行政はそれに応えようとする動きを見せていません。

まとめ

戦後の冤罪事件の中で再審逆転無罪まで最も時間のかかった、「布川事件」について説明しました。 無実なのに29年もの獄中生活を余儀なくされ、真相解明まで44年もの歳月を戦わなければならなかった2人が失った時間は永遠に取り戻すことができません。そして現代でも、冤罪事件は起こっています。警察・検察・裁判所が正しいことを行うよう、私たちが厳しい目を向ける必要があると感じさせる事件でした。

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