1分でわかるバカヤロー解散
- きっかけはバカヤロー発言
- 内閣不信任決議案が可決に
- 衆議院は解散になった
バカヤロー解散の概要
1953年(昭和28年)2月に行われた第15特別国会の衆議院予算委員会の質疑の中で、吉田茂首相が「バカヤロー」と発言したたため衆議院を解散する羽目になりました。この解散はバカヤロー解散と呼ばれています。 発言はすぐにを取り消されたのですが、その後国会は紛糾して内閣不信任決議案が可決されたため、衆議院は解散されました。
1953年に起きた衆議院解散の俗称
1953年3月14日に起きた衆議院解散は俗称バカヤロー解散といわれます。その由来は当時の吉田茂首相が国会で「バカヤロー」と暴言を吐いたことにあります。 この国会は第15特別国会で、この年の2月28日に開かれた衆議院予算委員会において発言されました。 この発言に対して懲罰動議が提出され3月2日に可決されたのに続いて、内閣不信任決議案も3月14日に可決されたため、首相が衆議院を解散したものです。
吉田茂首相が西村栄一議員に「バカヤロー」と発言したことがきっかけで衆議院は解散
バカヤロー発言は衆議院予算委員会における社会党の西村栄一議員と吉田首相の施政演説をめぐる質疑応答の中で出たものです。 西村栄一議員の質問に興奮した首相がバカヤローとつぶやいたのが相手に聞こえたというのが実情です。首相はすぐに発言を取り消し、西村栄一議員もこれを承認しています。 しかし、この発言に対して議会軽視であるとして社会党が懲罰委員会に付託するための動議を提出して、その後解散に追い込まれることになりました。
バカヤロー解散の背景
バカヤロー解散の背景には、その前年の1952年11月28日に池田隼人通商産業大臣に対する不信任決議案の可決で大臣が辞任した出来事があります。 その前日の11月27日に池田隼人通商産業大臣が野党の質問に答えて「経済原則に違反して、不法投機した人間が倒産してもやむを得ない」と発言をしためです。 この1か月前の10月30日に第4次吉田内閣は発足したばかりで、与党内では反主流派との激しい対立もあり大臣の辞任で窮地に立たされていました。
バカヤロー解散のその後
吉田茂首相はバカヤローと発言したことをすぐに取り消したものの、その後社会党が提出した懲罰委員会に付託する動議が可決されてしまいます。 追いかけるように内閣不信任決議案も野党から提出され可決されたことで、首相は衆議院を解散しました。
直後に吉田首相は発言を取り消し
衆議院予算委員会で社会党の西村栄一議員が吉田茂首相と質疑応答をしていた時に、質問に興奮した首相がバカヤローとつぶやき、それが相手に聞こえたというのが実情です。 首相はその場ですぐに発言を取り消し、西村栄一議員もこれを承認してそれ以上の追究はしませんでした。 「国際情勢は楽観できる」との吉田茂首相の施政演説の根拠を尋ねたところ、「戦争の危険はないという英米の首脳の発言による」と答えました。そこで、西村栄一議員が「イギリスの総理大臣の翻訳ではなく、国際情勢について聞いている」と切り返された際の発言でした。
懲罰委員会に動議が提出され可決
社会党は吉田茂首相のバカヤロー発言を議会軽視であるとして懲罰委員会に付託するための動議を提出してこれが可決されました。 この採決では、鳩山一郎議員や三木武吉議員などの自民党非主流派や野党ながら与党と協調していた改進党の一派だけでなく、主流派である広川弘禅農相一派も欠席したため可決されてしまいました。 ただ、懲罰委員会はその後開催されましたが、委員会で決議する前に衆議院が解散となったため廃案になっています。
内閣不信任案が提出され可決、解散
懲罰委員会への付託動議の可決の後、野党によって内閣不信任決議案が提出されました。1953年3月14日に行われた採決では自由党鳩山派の議員30数名が離党し、不信任案に賛成しました。 憲法69条では衆議院で内閣の不信任決議案が可決されたときは10日以内に衆議院解散できない場合は総辞職することが定められており、吉田茂首相は憲法に則って3月14日に衆議院を解散しました。 これに伴い第26回衆議院議員総選挙は4月19日に行われました。
まとめ
内閣不信任決議案は与党が圧倒的勢力を誇っているときは可決される見込みがないので、まず提出されません。 バカヤロー解散となった第4次吉田内閣は与党内にも造反する勢力を抱えていたため内閣不信任決議案が可決されることになりました。 大きな波にも耐えうる安定した政権運営には、与党内はもちろん、野党もできるだけ味方につけておくことが大事になります。