1分でわかる浅間山荘事件
- 連合赤軍の構成員が引き起こした籠城事件
- 連合赤軍と警察当局の攻防は10日間
- 人質は救出されたが犠牲者が3名
浅間山荘事件の概要
1979年2月に発生した浅間山荘事件は安保闘争から引き続く学生運動を背景に、日米安保条約に反対して武力行使に出ていた新左翼組織「連合赤軍」が、警察の捜査から逃げていた最中に長野県軽井沢にある保養施設に迷い込んだことから発生しました。 連合赤軍構成員の立てこもりは10日間にも及びますが、懸命の人質救出作戦の末、人質の救出に成功し犯人グループ5名全てを逮捕するに至りました。 当時の連合赤軍は極めて凶暴な左翼組織であり、逃走中は群馬県の山岳地帯にベースを張り、「総括」と呼ばれるリンチ事件を繰り返し多くの仲間を殺害しています。
1972年に起きた10日間に及ぶ人質立てこもり事件
事件は1972年当時長野県軽井沢にあった保養施設「あさま山荘」を舞台に、連合赤軍と警察当局による激しい攻防戦が10日間にも及び繰り広げられました。 事件当日、宿泊客や管理人は外出していたため不在でしたが、管理人の妻がたまたま留守番をしており10日間に及ぶ人質生活を余儀なくされたのです。 その間、管理人の妻は常に気丈に振る舞い、犯人グループが自動車での逃走を試みていると感づくとカギの場所を教えないなど勇敢な行動を取り続けました。
犯人グループは連合赤軍
犯人グループは「連合赤軍」と呼ばれる新左翼組織の構成員であり、これまでも銀行や鉄砲店を襲撃するなど数々の犯罪行為を繰り返し警察当局の捜査から逃れていました。 そもそも連合赤軍とは、日本共産党(革命左派)神奈川県委員会と共産主義者同盟赤軍派が組織統合されてできた組織です。 浅間山荘事件の直前までは、群馬県の山岳地帯を当初29名で逃走していましたが8名が逮捕されたほか、4人が逃亡、12名が「総括」と呼ばれるリンチのもとに殺害されています。
浅間山荘事件の経緯
浅間山荘事件は1972年2月19日に発生し、同月28日に連合赤軍構成員5名が逮捕され終結しますが、あくまでも計画的に犯行に及んだものではありません。 犯人グループが警察からの逃走過程において、偶然にも浅間山荘に辿り着いたことで引き起こされたものであり、新左翼組織による人質事件の中でも異彩を放っている理由でもあります。
連合赤軍は警察の捜査から逃走中
連合赤軍の前身である、通称「革命左派」と「赤軍派」は1970年に締結された日米安保条約に反対して、各地でテロ行為を繰り返していました。 その中でも、資金源や武器を調達を目的としたM作戦と呼ばれる銀行襲撃事件や鉄砲店襲撃事件は、日本中を震撼させるテロ事件として語り継がれています。 しかし、日米安保条約が締結されると新左翼組織の活動は徐々に下火になり始めており、警察当局の捜査も一層厳しくなったことから、彼らは群馬県の山岳地帯での逃亡生活を余儀なくされたのです。
浅間山荘での立てこもりは成り行き上
群馬県の山岳地帯で逃亡生活をしていた連合赤軍構成員は、350人を動員する警察の捜査から逃れるため、何人かのグループに分かれて山岳ベースを転々としていました。 彼らの情報源はラジオのみでしたが、2月16日に拠点としていた山岳ベースが警察に発見されたことを知ると、群馬県から長野県に移動することにします。しかし、土地勘がない上に険しいルートを選んだため方角を見失うことになります。 つまり、犯人グループは思いもよらない形で辿り着いた軽井沢で、成り行き上浅間山荘に立てこもることになりました。
浅間山荘事件の立てこもり中の経緯
犯人グループは、他の施設に侵入して食料を漁ったり着替えたりしていましたが、警察官に発見されたことから脱出しました。別の施設を物色していたところ、偶然にも浅間山荘に辿り着きます。 浅間山荘内では、何度となく協議が重ねられ、立てこもりに反対するメンバーもいました。しかし、脱出する術を失った犯人グループは施設内に立てこもらざるを得なくなったのです。
2月19日に浅間山荘での立てこもりが始まる
2月19日に浅間山荘に侵入した5人の連合赤軍構成員は、管理人の妻に乱暴しないことを約束し今後の対策を協議しますが、ほどなく警察当局に包囲されてしまいます。 彼らは自家用車での脱出を計画するものの、カギがないと管理人の妻に告げられ断念します。強行突破案も検討されますが他のメンバーが反対するなど意見がまとまりませんでした。 さらには管理人の妻を人質として警察当局と取引するといった案も協議されましたが、自分たちの意志に反するなどの理由によって取り下げられ籠城せざるを得なくなったのです。
長きにわたる籠城戦が始まる
新左翼組織による前代未聞の籠城事件に対し、長野県警はもとより警察庁、警視庁が集結して長期間にわたる籠城戦に挑むことになります。 この時、後藤田正晴警察庁長官は「人質の救出」「犯人グループを殺害せず逮捕」「犯人グループからの取引には応じない」ことなどを指示するとともに、他に潜伏しているであろう連合赤軍の動向にも注視しなければなりませんでした。 浅間山荘内部の状況がつかめない警察当局は、籠城する構成員の家族を説得にあたらせるなど、必死の攻防を続けますが、事態は膠着するばかりで先の見えない長期戦に焦りの色を濃くしていきます。
警察の突入
膠着状況が長期間にわたり、人質の健康状態も危ぶまれる中、警察当局は説得による投降は難しいと判断して強行突破に向け様々な作戦が検討されます。当時の浅間山荘は非常に難しい地形に建っていたことからクレーン車を使用する案が採用されます。 一方、連合赤軍の構成員も長期化する籠城生活に疲れが見え始め、2月21日にはニクソンアメリカ大統領が中華人民共和国を訪問したニュースに動揺しながらも警察当局の動きに警戒感を強めていきます。
浅間山荘事件の警察による突入作戦
クレーン車を使用した突入作戦を決定した警察当局は、28日早朝に攻撃を一旦中止するとともに投降勧告を行いますが、連合赤軍構成員からの反応はなく、いよいよ午前10時から作戦を開始することになります。 予想されたとおり連合赤軍の構成員は徹底抗戦の構えをみせ、激しい銃撃戦が展開され現場はまさに戦場と化しました。
鉄球を使った突入作戦
人質救出作戦においてカギを握ったのが、クレーンに取り付けた鉄球を使って山荘の屋根と壁に大きな穴を開けて機動隊が突入するといったプランです。 この作戦を成功させるには建物の構造を熟知し人質と赤軍派メンバーの位置関係を正確に把握することが必要でした。様々な情報を精査した結果、人質は2階部分に拉致され赤軍派メンバーは3階にいることが判明しました。 そこで、犯人グループを3階部分に孤立させるため、鉄球は2階と3階を結ぶ階段付近にぶつけて破壊することにしたのです。
殉職者など多数の被害者を出す形に
午前10時から始まった突入作戦は難航を極め、銃撃戦は約8時間も続くことになります。午後6時過ぎに3階ベッドルームから28人の機動隊員が内部になだれ込み、5人の連合赤軍派構成員は逮捕されます。 その結果、人質を無事救出したほか犯人グループ全員を逮捕するといったミッションをクリアできました。事件発生時からこれまでに殉職者2名・負傷者26名のほかに民間人1名が死亡、報道関係者1人が負傷する被害者を出す形になりました。
浅間山荘事件の犯人グループのメンバー
犯人グループのメンバーは、連合赤軍構成員である坂口弘、坂東國男、吉野雅邦、加藤倫教、加藤元久でした。当時二人の加藤は未成年であったことから少年A・Bと報道されています。 彼らはいずれも高学歴の持ち主であり、日本に革命を起こしたいと真剣に考えていた青年ですが、事件後の人生はそれぞれ異なったものとなりました。
坂口弘
坂口弘死刑囚は、連合赤軍では最高幹部の永田洋子、森恒夫に次ぐ、ナンバー3の座に君臨し、数々の殺人・テロ事件に関与した罪により確定死刑囚として収監中です。 若くして左翼活動に興味を持ち続け、東京水産大学に入学するも中退して活動家としての道にのめり込み、やがて連合赤軍に加わり浅間山荘事件においては主導的な立場で攻防を展開しました。
坂東國男
坂東國男国際指名手配犯は、旧赤軍派では金融機関を襲撃したM作戦を主導するなど中心メンバーとして活動し、連合赤軍ではナンバー5の位置につきました。 浅間山荘事件で収監されるもクアラルンプール事件(1975年)において釈放されると、日本赤軍に参加し、ダッカ日航機ハイジャック事件にも関与しました。現在も逃亡中です。
吉野雅邦
吉野雅邦受刑者は横浜国立大学入学後から学生運動にのめりこむようになり第一次羽田闘争にも参加しますが、内縁の妻がいたため活動を休止する期間もありました。 坂口、坂東らが死刑となる中で吉野雅邦受刑者は無期懲役が確定しています。これは前述2人よりも凶暴性が低く彼らの指示に従う立場であったことが認められてのことです。
加藤倫教
加藤倫教氏は同じく浅間山荘事件で逮捕された加藤元久氏の兄であり、懲役13年が確定した後、仮釈放されてからは環境保護活動家となっています。 連合赤軍には長兄加藤能敬氏の影響で参加しますが、山岳ベースで能敬氏の総括に加担し死なせてしまいました。弟元久氏と逃亡しようとしましたが、機を逸してしまい浅間山荘事件を引き起こします。
加藤元久
加藤元久氏は連合赤軍メンバー加藤能敬・倫教氏の弟であり、浅間山荘事件当時は16歳であったことから「少年B」(ちなみに「少年A」は倫教氏)とされています。逮捕後は中等少年院に送致されました。 犯人グループの中で、その後の消息が全くわからないのが元久氏であり、一部では左翼活動家であるといった噂もありましたが真相は定かではありません。
浅間山荘事件のマスコミの報道
浅間山荘事件は10日間にわたって警察当局と銃撃戦を繰り広げるといった、前代未聞の人質立てこもり事件でありマスコミ報道も連日加熱していきます。 テレビ視聴率は平均50%を超えただけでなく、暗視カメラとして白黒カメラが見直されるなど、その後の報道映像にも影響を与えました。加えて、この事件ならではのトピックもいくつか残されました。
報道協定を結ぶ
報道協定とは誘拐事件や人質事件が発生した際、人命を守るといった観点から報道機関が協定を結び一時報道を控えるです。 浅間山荘事件においては、2月27日の午後に報道協定が結ばれラジオから事件関係の放送が一切なくなったことから、それまでラジオから警察当局の動きを察知していた犯人グループの動揺を誘います。 警察としては制圧作戦を実行するにあたり、当局の動きが察知されると人質の命に関わると判断しての要請でしたが、結果、作戦成功の大きな要因ともなりました。
警察関係者のカップヌードルが注目を集めた
長野県軽井沢の冬といえば極寒の気候で知られていますが、浅間山荘事件が発生した2月はまさに厳しい寒さとの闘いであり、配給された弁当やカレーライスも凍ってしまうほどだったのです。 ここで活躍したのが発売間もないカップヌードルであり、これを食する機動隊員の姿がマスコミを通じて報じられました。 カップヌードルの頒布によって、商品のネームバリューは一気に大きくなり爆発的な売り上げにつながることになったのです。
浅間山荘事件のその後
浅間山荘事件の後、連合赤軍幹部は次々と逮捕され各地に潜伏していたメンバーたちも警察当局に出頭し、この凶暴かつ破滅的な組織は崩壊しました。 その一方で、日本赤軍によるクアラルンプール事件(1975年)、ダッカ日航機ハイジャック事件(1978年)が発生し、坂東國男ら旧日本赤軍メンバーらを釈放せざるを得ない事態に陥ります。その反省から日本政府は特殊部隊(現SAT)の創設に踏み切りました。 関連記事はこちら↓
連合赤軍が壊滅するきっかけとなった浅間山荘事件
浅間山荘事件は、1970年に締結された2度目の日米安保条約を巡って、テロ活動を繰り広げいた新左翼組織「連合赤軍」が引き起こした人質たてこもり事件です。 現代の日本においてテロ組織の表立った活動があるわけではありませんが、その遺伝子は間違いなく国内に潜伏していることを私たちは浅間山荘事件の顛末とともに忘れてはなりません。