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夕張保険金殺人事件の真相とは?犯人の日高夫婦の保険金詐欺の巧妙な手口。

 

もくじ

夕張保険金殺人事件とは

1分でわかる夕張保険金殺人事件

  • 暴力団夫婦が事業の資金繰り悪化から社員宿舎を放火
  • 保険金詐欺であることが判明し夫婦に死刑判決
  • 夫婦は恩赦を狙い控訴せず死刑確定、執行された

「夕張保険金殺人事件」は犯人夫妻が経営する会社の従業員が住まう宿舎の火災保険と、従業員の死亡保険を目当てにした放火殺人事件です。 犯人夫妻は暴力団日高組の組長夫妻でもありました。 事件の実行犯は犯人夫妻にそそのかされた会社の作業員でしたが、この作業員の自白によって夫妻の犯行内容が明らかになりました。裁判は紆余曲折をたどりましたが、結果的に夫婦二人に死刑が執行されるという戦後初めてのケースになりました。

夕張保険金殺人事件の犯人夫婦

残虐非道な「夕張保険金殺人事件」ですが、この事件の首謀者は夕張炭鉱で炭鉱作業者を斡旋する(いわゆる手配師業)日高興業という会社経営のかたわら、暴力団日高組の初代組長でもあった日高安政(ひだかやすまさ)とその妻信子(のぶこ)です。 二人はどのような人間だったのでしょうか。まずは二人の人物像に迫ってみましょう。

 

日高安政

日高安政は6歳の時に夕張市に移住しますが、父を失い母子家庭で育ちました。 兄たちの影響もあって非行に走り、小学校6年生から15歳までを教護院で過ごします。17歳の頃から暴力団員となりますが、1969年には最初の結婚して子供ももうけます。 日高は夕張炭鉱で操業していた三菱大夕張炭鉱(みつびしおおゆうばりたんこう)の下請け会社を1970年頃興し、炭鉱作業員の手配を行う一方で暴力団誠友会の初代組長として金融業や水商売も手がけます。やがて日高は刑務所で服役することが多くなり、会社は実質的に再婚した妻の信子が仕切るようになります。

日高信子

もう一人の「夕張保険金殺人事件」の首謀者である日高信子は1946年に夕張炭鉱の炭鉱夫の家庭に生まれました。 高校時代から非行に走り「女番長」として知られていました。 高校卒業後は東京の専門学校に入学しましたが、1年後に夕張に戻り暴力団の組員と結婚します。その後夫は死亡し信子はバーのホステスとして 働くようになりました。 そのバーに客として来ていた日高安正と知り合い、最初の妻と離婚した安政とやがて再婚します。

夕張保険金殺人事件の概要

それではここで事件がどのような経緯で起こりなぜ発覚したのか、時系列に事件の全体像を見てみましょう。 そこには身勝手としかいいようのない犯人夫妻の振る舞いがありました。人間の欲とはかくも恐ろしいものだと実感させられます。

炭鉱労働者の人材会社を営んでいた

前述のように日高夫妻は1970年頃から三菱大夕張炭鉱の下請けとして炭鉱作業員の手配を行う「日高班」を営んでいました。1975年には会社組織化し、名称を有限会社日高興業、有限会社日高商事としました。 同時に日高安政は暴力団誠友会を興し初代組長を名乗り、金融業や水商売にも手を染めます。やがて暴力事件や銃刀法違反などで逮捕・服役するようになり、実質的に会社の経営は妻の信子が取り仕切るようになりました。 会社は1977年に一旦倒産しましたが、妻の信子は会社を再興し一人で会社の経営していました。

北炭夕張新炭鉱ガス突出事故がきっかけで保険金の旨味を知る

そのような中で、1981年10月に北炭夕張新炭鉱ガス突出事故が発生しました。この時、信子が経営する会社から炭鉱の現場に派遣していた作業員7人が事故で死亡しました。 このような危険な現場の作業員には保険が掛けられるのが一般的で、当然死亡した作業員には多額の死亡保険金が掛けられており、保険金は会社に振り込まれました。 作業員の遺族にも保険金は支払われましたが、日高夫婦の手元に1億円以上の現金が残りました。意図せぬ大金を手にした日高夫婦は自宅兼事務所の新築をはじめ考えられるあらゆる浪費を行った結果、2年足らずで保険金を使い果たしてしまいました。

炭鉱閉鎖等で事業の業績は悪化し借金を負う

折しも我が国ではエネルギー革命が進行中で、石炭から石油へのエネルギー転換が進んでいました。 このような情勢の中で石炭産業は急速に斜陽化し、夕張においても炭鉱の閉山が相次ぎました。これに追い打ちをかけたのが北炭夕張新炭鉱ガス突出事故だったのです。 夕張の炭鉱業が炭鉱事故をきっかけに急速に衰退したことにより、夫妻が経営する炭鉱作業員手廃業をはじめ、幾つかの事業が暗礁に乗り上げ、多額の借金を負った夫婦の生活は急速に困窮していきました。

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