1分でわかる長銀事件
長銀事件の全貌
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1998年に起きた粉飾決算事件
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長期信用銀行の頭取に問題
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裁判の末、逮捕された長銀関係者は無罪
長銀事件の概要
(画像:Unsplash)
「長銀事件」はバブル崩壊後の平成不況を代表する大手金融機関の破綻につながった事件として有名です。日本長期信用銀行(長銀)は、当時絶対潰れない(潰せない)といわれた大手金融機関である、山一証券、北海道拓殖銀行とともに破綻してしまいました。 表面的に破綻の引き金となったのは1988年に起きた粉飾決算事件ですが、背景にはバブル経済時の乱脈融資と護送船団方式による旧大蔵省の指導の不適切さなどが指摘されています。
1998年に起きた粉飾決算事件
1998年当時長銀はバブル期の乱脈融資のツケで財政悪化に陥っており、スイス銀行との資本提携に望みを託していました。 ところが、旧大蔵省による資産査定指針が従来より厳しくなっており、新しい指針に合わせると不良債権扱い(焦げ付き)の案件が一気に増えてしまい、財務諸表の悪化が避けられない状況になりました。 長銀はスイス銀行との資本提携が流れてしまうことを恐れて、1998年3月期決算において損失を約3,100億円も少なく記載した有価証券報告書を作成しました。その結果配当できる利益がないにもかかわらず、約71億円を違法配当してしまったのです。つまりは粉飾決算で苦境を乗り切ろうとしたのでした。
銀行は破綻に追い込まれた
結果的には長銀の経営危機がマスコミの報道などで明らかになってしまいます。 長銀の経営危機に気づいたスイス銀行は突然資本提携を反古(ほご)にし、市場で長銀株を大量に空売りしました。このため200円前後だった長銀株はあっという間に50円を割り込んでしまい、長銀は破綻せざるをえなくなりました。 1998年10月に成立したばかりの金融再生法適用第一号の破綻でした。その後長銀は一時国有化されます。長銀に投入された公的資金は約7兆8,000億円にのぼりましたが、そのうち約3兆6,000億円は回収できなかったとされています。
日本長期信用銀行
(画像:Unsplash)
「日本長期信用銀行」は企業の設備資金など長期資金の安定供給を目的として1952年12月設立され、長年「長銀(ちょうぎん)」の愛称で親しまれてきました。 我が国の高度経済成長時代、長銀は長期信用債券で調達した豊富な資金を鉄鋼・電力・石炭・海運の4重点産業へ資金供給し、日本の傾斜生産方式による経済発展の基礎を固めることに貢献しました。 やがて我が国企業の資金調達先は銀行による間接金融から証券市場を通じた直接金融へシフトするのにともない、長期資金供給機能としての長銀の存在意義は徐々に低下していきました。 バブル経済という環境もあって、長銀は貸出先を多様化し不動産関連融資などへの比率を高めていきました。
長銀事件の関係者
(画像:Unsplash)
「長銀事件」の主な登場人物としては元頭取の「大野木克信(おおのきかつのぶ)」「鈴木恒男(すずきつねお)」「杉浦敏介(すぎうらびんすけ)」の三氏があげられます。 それでは三人がどのように「長銀事件」に関わっていったのでしょうか。杉浦氏は時効の壁に阻まれ逮捕・起訴こそされませんでしたが、実質的に長銀破綻の原因を作ったとされています。
元頭取・大野木克信
大野木克信氏は1995年に長銀の頭取の座につきました。大野木氏にとって不運なことに、彼が頭取になったときには長銀の経営状況は既に悪化していました。 大野木氏は長銀の中では国際派のエースとして名が通っていました。彼は頭取就任時から旧大蔵省による護送船団方式に疑問を呈し、コンプライアンスの重視とグローバル化の推進を積極的に推し進めようとしました。 このためスイス銀行との対等な資本提携などを模索しますが、「とき既に遅し」で過去に犯した長銀の過ちの帳尻を合わせるため、最終的には粉飾決算に手を染めてしまいました。
元頭取・鈴木恒男
鈴木恒男氏は民間銀行としての長銀における最後の頭取です。取締役営業企画部長などの役職を歴任し1998年に大野木氏の後任として頭取に就任しました。 鈴木氏は1992年から取締役事業推進部長として長銀の過去の過剰融資に伴う不良債権処理に腐心しました。 1998年9月長銀が多額の資金をつぎ込んでいた日本リースが破綻します。負債総額2兆1800億円という、まれに見る大型倒産でした。長銀は同年10月取締役会を開き、長銀を一時国有化することを決めました。最後の取締役会を開き国有化への移行をリードしたのが鈴木恒男氏だったのです。