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KDD事件の全貌に迫る。板野学社長や政界への影響はどこまで大きかったか?

 

もくじ

1分でわかるKDD事件

1分でわかるニュースの要点

  • KDD社員が組織ぐるみの密輸
  • 板野学社長は辞任に追い込まれる
  • 政界を巻き込む大騒動で衆議院が解散

国際電信電話株式会社(KDD)

KDD事件

KDD事件(画像:Unsplash

「KDD」とは、正式名称を「国際電信電話株式会社」といい現在の「KDDI」のことを指します。「KDD」は1953年に日本電信電話公社から分離独立しました。 「KDDI」と聞くと、馴染みがある人も多いでしょう。「KDD」は、その「KDDI」の前身となる会社だったのです。「KDD」はこのように長い歴史を持つ会社でした。

 

KDD事件の概要・経緯

KDD事件

KDD事件(画像:Unsplash

「KDD事件」とは1979年に起きた汚職事件であり、密輸事件でもあります。 KDDの社員が2名が摘発されるだけではなく社長の板野学氏の辞任や政界にも大きな影響を与えました。

1979年10月2日にKDD社員2名が成田空港で摘発

「KDD事件」では、1979年10月2日にKDDの社員2名が成田空港において摘発されました。この2名はモスクワを訪問していた板野学社長に同行しており、成田空港にはロンドン経由で到着していました。 この2名を税関で取り調べると、持ち物の中から数千万円の高級なネックスレスやブローチなどが発見され、密輸がおこなわれていたことが判明しました。その後の調べで、この密輸が何度も繰り返されていた組織ぐるみのものであったこともわかりました。

1979年10月25日に板野学社長が辞任

1979年10月25日に、「KDD事件」の責任を取って板野学社長が辞任します。摘発からわずか23日後という早さでした。密輸は会社ぐるみでおこなわれていて、贈答品などに使われていたことが発覚したので、社長は辞任せざるを得なかったと考えられます。 密輸品の総額はおよそ1億円以上ともなり、少なくとも20回以上の密輸がおこなわれていたことがわかっています。会社としては、何らかの形で責任を取らざるを得なかったのでしょう。

1980年に元社長秘書と前社長付参与が自殺

「KDD事件」を受けて、自殺者も出てしまいました。1980年1月24日に元社長秘書が自宅で首を吊って自殺してしまったのです。また、同年2月6日に前社長付参与が小田急線のホームから飛び込み自殺をしてしまいました。 これは「KDD事件」に対する罪の意識に耐えかねた結果だと考えられます。この2名の自殺は「KDD事件」を世間により深く印象付ける要因ともなりました。

 

1980年に複数の逮捕者を出す

「KDD事件」では、1980年に複数の逮捕者が出ました。佐藤陽一(さとうよういち)KDD前社長室長を業務上横領と関税法違反容疑で逮捕した後、松井清武(まついきよたけ)郵政省電気通信監理官と日高英実(ひだかひでみ)郵政省郵務局国際業務課長を収賄容疑で逮捕しました。 相次いで「KDD事件」の関係者を逮捕、起訴することによって事件の解決につなげていったのです。こうして事件の全貌が次第に明らかになり、誰が「KDD事件」に関係しているのかが浮き彫りになってきました。

1985年と1994年に確定判決

1985年に東京地裁において板野学元社長に懲役1年6ケ月という判決が下りました。また、佐藤陽一前社長室長には懲役3年が科され、松井清武管理官と日高英実事務課長には懲役1年と収賄額分の追徴金が科せられました。 その後、1994年に最高裁にて板野学元社長に関する上告が棄却され、懲役10ケ月という確定判決が下りました。それぞれに4年以下の執行猶予がつけられましたが、判決の結果については議論が分かれるところでしょう。

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