1分でわかるイラク日本人青年殺害事件
イラク日本人青年殺害事件
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2004年10月に香田証生氏がイラクのテロ組織に拘束される
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テロ組織が日本政府に対し48時間以内に自衛隊を撤退するよう要求
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同年11月2日に香田氏を殺害する様子が動画で配信される
2004年10月に発生した「イラク日本人青年殺害事件」とは、イラクのテロ組織に日本人男性が殺害されたというものです。この事件により、日本では「自己責任論」が議論されました。
イラク日本人青年殺害事件の起きた時代背景
(画像:Unsplash)
「イラク日本人青年殺害事件」を語るうえで、当時のイラク国内の治安の悪さを避けて通ることはできません。2003年にイラク戦争は終結したものの、それで国内が安定したわけではなかったからです。そうしたイラクに入国したことで、被害者は命を落としました。
イラクの治安は最悪だった
2003年3月20日、アメリカ・イギリス・オーストラリア・ポーランドなどの有志連合がイラクに軍事介入する「イラク戦争」が起こりました。当時のフセイン政権が大量破壊兵器を保持し、武装解除を遅らせていたことが理由です。 2003年5月1日にはイラク戦争の終結宣言が行われましたがフセイン政権の残存勢力やイスラーム過激派のテロは続き、2004年当時のイラク国内は治安が悪い状況が続いていました。
アル・カイーダによるテロが多発
2003年3月のイラク戦争以後は、正式名称を「イラクの聖戦アル・カイーダ」という組織によるテロが多発していました。アル・カイーダとはアブー・ムスアブ・アッ=ザルカーウィーが創設した、サラフィー・ジハード主義の組織を指します。 スンニ派の信徒によって構成されており、外国出身者が多く過激な闘争を行うことで知られていました。そしてアル・カイーダの闘争路線はイラク国内の他の武装勢力との対立の火種にもなっており、様々な目的でテロを行っていました。
イラクの支援をした日本もアル・カイーダの標的となっていた
日本では2003年12月よりイラクの国家再建を支援することを目的に、自衛隊を派遣して人道復興と安全確保の支援活動を始めていました。 それにより日本もアル・カイーダの標的となり、様々な事件が起こっています。2003年11月29日に外交官だった奥克彦駐英参事官と井ノ上正盛駐イラク三等書記官が射殺されたことを皮切りに、2004年4月7日にはイラク日本人人質事件が発生したのです。 誘拐された3名は後に開放されましたが、日本人はアル・カイーダの標的であり続けました。
アル・カイーダからの要求は48時間以内の自衛隊の撤退
(画像:Unsplash)
アル・カイーダが被害者となった香田証生氏を拉致したと発表したのは、2004年10月27日2時のことでした。ウェブサイトで人質にされた香田氏の動画と共に、犯行声明を発表したのです。 アル・カイーダの要求は、「48時間以内に自衛隊がイラクから撤退すること」でした。この要求をのまなければ、人質を殺すと明言したのです。 その動画の中で拉致された香田氏はうつむきながら「すみません」と言い、「日本に帰りたい」と話していました。
小泉総理はアル・カイーダの要求を断った
(画像:Unsplash)
2004年当時、首相を務めていたのは小泉純一郎氏でした。同年10月27日に香田証生氏が拉致され、アル・カイーダが自衛隊の撤退を要求していることが即座に報告されます。 しかし同日7時25分に小泉首相は細田官房長官との電話の中で、自衛隊は撤退させないよう指示しました。さらに同日10時からの記者会見で「テロに屈することはできない」として、自衛隊の撤退がないことを明言します。
香田証生はアル・カイーダにより殺害され動画が公開された
(画像:Unsplash)
アル・カイーダが期限とした48時間を経過した2004年10月30日未明、在イラク日本大使館にイラク駐在米軍から連絡が入ります。その内容はバグダッドとティクリートの中間地点にほど近いバラドで、日本人らしい遺体が見つかったというものでした。 同月31日3時30分にはイラク保険省からも遺体発見の一報があり、それが香田証生氏のものだと確認されたのです。 さらに同年11月2日に、アル・カイーダは犯行声明を配信します。その動画には構成員が香田氏の首をナイフで切り、殺害する様子が映されていました。
被害者・香田証生
(画像:Unsplash)
「イラク日本人青年殺害事件」の被害者となった 香田証生氏は、当時24歳の若者でした。香田さんはワーキングホリデーを利用してニュージーランドに滞在しており、2004年12月には日本に帰国する予定となっていました。 しかしワーキングホリデーを終えても帰国することなく世界中を旅し、「イラク日本人青年殺害事件」の被害者となってしまうのです。ここでは、香田証生さんの人物像に迫ります。
軽い気持ちでイラクへ旅行に出かけた
ワーキングホリデーを終えて世界を旅していた香田証生氏は、2004年10月には中東にいました。イスラエルとヨルダンを訪れた後、イラクへの入国を決めたようです。 なぜ香田証生氏がイラク戦争によって治安が悪化していたイラクに入国しようとしたのかは明かされていません。「イラクの現状を自分の目で見たかった」「周りが驚くことをしたかった」のではないかと推測されています。 いずれにせよ当時のイラク情勢を考えると、香田証生氏は軽い気持ちで入国したと考えられます。
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周囲からの反対、外務省による渡航禁止令を無視しイラクに入国
2003年11月の外交官射殺事件以降、外務省はイラクへの渡航禁止令を出していました。2004年4月にも、テロ事件に日本人が巻き込まれていたことも要因の一つです。 2004年10月に香田氏がヨルダンに入国した時、日本の映画監督である四ノ宮浩氏も滞在していました。香田証生氏は四ノ宮浩氏にイラクのホテルを紹介してくれるよう依頼しましたが、断られています。そして四ノ宮浩氏はイラク入国を断念するよう、香田証生氏に忠告していました。 しかし香田証生氏はその忠告を聞くことなく、同月20日にはイラクに入国しました。
遺族は世間に対し謝罪を余儀なくされた
2004年10月27日にアル・カイーダの犯行声明動画が発表されると、香田証生氏の母と兄が記者会見に臨みます。香田氏の無事解放を求めたものの、その願いが叶うことはありませんでした。 「イラク日本人青年殺害事件」発生後、遺族は悲しむ間もなく世間からのバッシングを受けます。日本政府による渡航禁止令やヨルダンで入国しないよう忠告を受けていたにも関わらず、香田氏が聞き入れなかったからです。 日本では「自己責任論」が巻き起こり、遺族は世間に対して謝罪することを余儀なくされました。