1分でわかる足利事件
足利事件とは
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1991年に事件とは無関係の菅谷利和さんを誤認逮捕
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菅谷さんは無実を主張するも2000年に無期懲役が確定
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2010年に行われた再審の判決公判で無罪が即日確定
足利事件の概要
足利事件は1990年5月13日に、渡良瀬川の河川敷で幼女の他殺死体が発見されたことから始まりました。 1991年12月2日に菅家利和さんが逮捕され、一度は犯行を自供します。しかし第一審の6回目の公判で犯行を否認し、その後非常に長きにわたる裁判に発展します。結果、冤罪であったことが判明しました。ここでは足利事件の概要について詳述します。
1990年に起きた殺人事件
1990年5月12日に栃木県足利市のパチンコ店から、親についてきた当時4歳の女の子の姿が見えなくなりました。そして翌日、パチンコ店にほど近い渡良瀬川の河川敷で遺体となって発見されました。 被害者の女児には男性の体液が残っており、女児が着用していた下着が近くの川の中から発見されました。わいせつ目的の誘拐殺人事件として捜査が始まった翌年、足利市内に住む菅家利和さんを逮捕しました。この地名から「足利事件」と呼ばれるようになります。
のちに冤罪事件であったことが判明
逮捕された菅家利和さんは、一度は犯行を認め自供しました。その後1992年2月より第一審が始まり、菅家さんは第6回公判で無罪を主張します。しかし判決は無期懲役で、菅家さんは控訴しました。 控訴審は1994年4月より開始されますが、1996年5月に控訴棄却が決定します。菅家さんは上告しますが2000年7月に上告棄却が決定され、無期懲役が確定します。 しかし菅家さんと弁護団は再審請求を行いました。日本テレビが報道番組で足利事件を取り上げ、DNA鑑定の問題点並びに自供の矛盾点を指摘し世間を賑わします。 加えて2009年2月にDNAの再鑑定が決定され、4月に菅家さんのDNAと一致しないことが明らかになります。足利事件が冤罪であることが明白となった出来事でした。
足利事件の経緯
足利事件は菅家さんの誤認逮捕から再審の判決公判まで、17年もの年月が流れています。初めから、裁判の行方も納得のいくものとは言い難く、菅家さんが犯人だと決めつけるような点が多々みられました。 そして菅家さんは冤罪であるとの判決が下った時には公訴時効を迎えてしまったために、結局真犯人はわからないままになっています。
DNAが一致したことで菅家利和さんが逮捕された
菅家利和さんが誤認逮捕された理由は、被害者である女児に付着していた体液のDNAと一致したことでした。 「不審者はルパンに似た男だった」という目撃証言に基づいた捜査を数か月で打ち切った栃木県警は、「独身かつ子ども好きの男性」というプロファイリングに合致する人物をピックアップしていました。その中に菅谷さんがいたのです。 科捜研が「犯人と菅家さんのDNAの型が一致した」という鑑定書をまとめたことから任意同行し、菅家さんから自白を引き出して逮捕に踏み切ったのです。
2000年に無期懲役が確定した
1992年に始まった第一審が第6回公判を迎えた日、菅家さんは初めて無罪を主張します。しかしその訴えが認められることはなく、1993年7月に無期懲役判決が下されました。 菅家さんが控訴したことで1994年から始まった控訴審においても、捜査上の矛盾が次々と明るみになったにも関わらず公訴棄却の判決が下ります。 菅家さんは最高裁に上告しますが、2000年7月に上告棄却が決定しました。これにより無期懲役が確定したのです。
2002年に再審請求
2002年12月、菅家さんは弁護団と共に宇都宮地裁に再審請求を申し立てました。しかし宇都宮地裁は、2008年2月に菅家さんの再審請求を棄却します。 そのため菅家さんと弁護団は、東京高裁に即時抗告しました。そして2008年12月、東京高裁はDNAの再鑑定を決定します。 2009年2月、検察と弁護団双方が推薦した2名の鑑定人によりDNAの再鑑定が始まりました。その結果「犯人と菅家さんのDNAが不一致である」ことが明らかとなり、同年5月に東京高裁に鑑定書が提出されます。そして2009年6月、ようやく東京高裁によって再審開始が決定しました。