1分でわかる山口組抗争
山口組抗争とは
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日本最大規模の指定暴力団による抗争
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「山一抗争」により暴力団対策法が施行
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山口組・神戸山口組・任侠山口組に分裂
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日本最大規模の暴力団
(画像:Unsplash)
山口組は組合員10,300名を誇る日本最大規模の暴力団です。神戸市で結成された山口組は1946年に三代目となった田岡一雄組長が日本全国に勢力を拡大し、2016年には43都道府県に系列組織を広げました。 一方で抗争事件や分裂事件も頻発しているのも事実です。近年勃発している山口組をめぐる分裂事件について解説します。
山口組から神戸山口組が分裂
山口組において六代目篠田建市組長の出身団体である弘道会と山健組の対立が表面化したのは2015年8月にことです。 三代目田岡一雄組長を支えた山本健一若頭(当時)が起こした山健組は、山口組の中でも極めて影響力が大きいことで知られていました。 そのため分裂は避けられない状況となり、同年9月には山健組に追随する12団体に新組織1団体が加わり「神戸山口組」が結成されるのです。初代組長には山健組の井上邦雄が就任し、組員は5,100人にも上りました。
神戸山口組から任侠山口組が分裂
山口組から神戸山口組が分裂した事件は1980年代に勃発した「山一抗争」を彷彿させるものであり、一般市民にも大きな衝撃を与えました。 さらに2017年には神戸山口組から任侠山口組が分裂します。任侠山口組は山健組の織田絆誠(金禎紀)元副組長を代表として尼崎市に本部を構え、構成員は400名になりました。 任侠山口組の特徴は組長を置かず代表としている点です。これは暴力団対策法の対象から逃れるための措置との指摘もありましたが、任侠山口組は2018年3月に指定暴力団に指定されました。
組員同士の抗争が絶えない
山口組が3派に分裂して以降、組合員同士の抗争は後を絶ちません。極道の世界で盃は絶対的な力を持っており、盃を交わしたものが別組織を結成することは許されません。 つまり山口組抗争はもともと「同じ釜の飯を食ったもの同士」の抗争であるため、より裏切られた感も強く簡単に収束できない状況に陥っています。 さらに2015年に起きた山口組抗争は絶対的な実力者である高山清司若頭が不在の最中に起こったものです。そのため事態を収拾できる人物がいないことも抗争を激化させています。
山口組抗争、分裂の原因
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山口組抗争、分裂の主な原因は「主導権争い」です。山口組は三代目田岡一雄組長が全国制覇を成し遂げ、日本最大級の暴力団に成長しました。 ところが1980年代に入り田岡一雄組長が死去すると、跡目相続問題が噴出し「山一抗争」が勃発します。その後、渡辺芳則(山健組)が五代目に就任すると、しばらくは分裂騒動は沈静化しました。 しかし2005年に篠田種市(弘道会)が六代目に就任すると、2015年には山健組との「主導権争い」が表面化し山口組抗争、分裂へと展開していくのです。
山口組抗争の最新事件から主要事件まで
(画像:Unsplash)
山口組において1984年から約5年間続いた「山一抗争」は多くの犠牲者を出すことになりました。この抗争を重く見た政府は「暴力団対策法」を施行し、組織の壊滅に取り組みます。 その甲斐あって抗争事件は鎮静化していたものの、2015年に神戸山口組が結成されると瞬く間に抗争が激化するのです。そこで山口組抗争の最新事件や主要事件について解説します。
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中田浩司が山口組組員へ発砲した
山口組と神戸山口組の抗争が激化する中、2019年8月には山口組高山清司若頭の自宅前で弘道会系組合員が銃撃されました。 この事件の実行犯として同年12月に逮捕されたのが山健組中田浩司組長です。中田浩二組長は自らバイクに乗って発砲したとみられています。 山健組といえば山口組五代目渡辺芳則組長を輩出した名門中の名門です。本来ヒットマンは若い組員の仕事とされています。しかし山健組の組長自らが実行犯となったことに警察関係者も驚きを隠せませんでした。