西部邁とはどのような人物なのか
西部邁とは
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知の巨人といわれ当初左翼活動に参加も後に保守論客として活躍
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多くの著書を残し、様々な知識人とも交流を持つ
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その自殺理由には疑問点も残す
「西部邁(にしべすすむ)」は1958年に東京大学へ入学すると過激な左翼活動に参加します。しかし山岳ベース事件で共産主義の恐ろしさに気づき左翼と決別しました。 東京大学教養学部助教授などを歴任し、処女作の「ソシオ・エコノミスト」などを執筆したのちに米英に渡ります。保守論客として活躍し多くの人に影響を与えましたが、2018年1月に自ら命を絶ちました。
西部邁の経歴
(画像:Unsplash)
西部氏は1958年に東京大学へ入学すると極左活動に参加しますが、徐々に共産主義思想から離れ保守派評論家として活動するようになります。東京大学卒業後は主に東京大学教養学部助教授として奉職します。 米英に渡ったのちに保守論客として活躍しますが、2018年1月に入水自殺によってその生涯を閉じます。ここからは西部氏の生い立ちから自殺に至るまでの生涯を振り返ってみましょう。
生い立ち
西部氏は1939年3月15日、北海道の山越郡長万部町に生まれました。父親は浄土宗派の末寺の末っ子で農協職員として働いていました。 西部氏は信濃小学校を卒業後、札幌市立柏中学校に入学し地元の名門校である札幌南高等学校に進学します。 高等学校卒業後に東京大学を受験しますが不合格となり、一浪した翌年には合格し上京します。卒業後は横浜国立大学経済学部助教授や東京大学教養学部助教授として奉職しました。
患っていた持病
西部氏は重度の吃音症(きつおんしょう:どもり)で、当時は周りの人と話すことが少なかったといいます。「西部氏」は父親との確執など家庭環境の影響による精神的なことが原因と考えていました。 しかし医学的に原因をさぐったところ口の動かし方に問題があることが分かりました。「西部氏」は「い」の発音をする際に唇を上に開いていたのです。 どちらが原因かは明確になっていませんが、のちに「西部氏」は同じ吃音症の少年が活躍するギリシャ映画を観て感銘を受け吃音症が克服できたと語っています。
評論家、教授として活躍
西部氏は米国と英国の大学に在籍し、そこで保守思想のきっかけを掴んだといわれています。帰国した「西部氏」は大衆社会批判を軸とした保守論客として活動し1986年に東京大学教養学部教授となります。 しかしその後に起きた大学の教員人事を巡る騒動に巻き込まれます。「東大駒場騒動」又は当事者の名から「中沢事件」といわれる騒動です。 この騒動で、「西部氏」は東京大学の方針には従えないとして大学を辞職します。
多数の書籍を執筆
西部氏は1975年に処女作の「ソシエ・エコノミスト」を出版します。その後は英国での体験記である「蜃気楼の中へ」を執筆します。 また自身の経験した左翼活動を振り返った著書「六十年安保ーセンチメンタル・ジャーニー」を出版します。「蜃気楼の中へ」からも伺えるように、自身の人生をじっと見めるスタイルで執筆活動を続けました。 このほかに単著では「大衆民主主を疑え」など、共著では小林よしのりとの「本日の雑談」、又ミルトン・フリードマンの翻訳本など保守思想の書物を多く残しています。
西部邁ゼミナールなどのテレビ出演も多数
西部氏は2008年10月からTOKYO MXで放送された「続・陳平の言いたい放だい」の司会を務めることになります。2009年1月から番組名が「 西部邁ゼミナール∼戦後タブーをけっとばせ∼」に改題されます。 当時を知る人は「今ごろ西部先生でいいのか?」という声もあったそうですが、ゲストとの政治経済、時事問題などの討論が評判となりました。 このほかにテレビ朝日の「朝まで生テレビ」にゲスト出演するなど、メディアによる露出も精力的に行いました。
西部邁の思想
(画像:Unsplash)
西部氏は東京大学在学中はブント(共産主義者同盟)の中心人物として活動していました。左翼活動を終えるきっかけとなったのは、連合赤軍が起こした所謂「山岳ベース事件」でした。 東京大学を卒業後は同大学の助教授として奉職し、保守論客としても活躍します。革命のための政治的暴力を批判した思想家「アルベール・カミュ」の意見にも賛成しています。 しかし西部氏の思想の原点はイタリア・ファシスタであり、生涯その思想を捨てることはできなかったともいわれています。